通り魔事件を生んだ母の過剰愛
- 高下 豊光
- 2021年11月18日
- 読了時間: 3分
2008年6月8日東京・秋葉原で惨劇は起きた。
すでに、あの日から13年が経っている。

死刑犯・加藤智大は、非正規派遣社員であった。当時、派遣社員は、まだ少数派で加藤智大の無差別殺人の動機の一つに挙げられた。
ところが、彼の精神面での人格を形成したのが、母親の度を過ぎた病的な教育ママぶりにあることが明らかになった。
通り魔事件が発生した後に、彼の弟が「週刊現代」の取材に答えている。その中で、小学校時代の兄弟の想い出を述べている。兄弟は、暴君・母親に、テレビ鑑賞もゲーム機遊びも、友達の家に出かけることさえ許可されなかった。この母親は、あまりにも厳しすぎると云った世間の指弾を浴びることになる。
教育方針というより、愛情の注ぎ方を完全に間違えている。兄弟は、漫画や雑誌を買ってくることも禁じられていた。テストの成績が悪い日には、母親は次第に激高し、やがては論点がズレていき、態度が悪い、口の利き方が悪いとエスカレートしていく。その上、兄弟に体罰を加えることも珍しくはなかった。
小学校では、絵や作文の宿題が出される。その回答については、いちいち母親の検閲を受けさせている。
少しでも母親の意にそぐわないとやり直しを命じられた。それも回答を修正するのではなく、初めからのやり直しを命じていた。構図や文章は母の指示通りに改めさせている。それで自由な才能が開花するだろうか。正しい好奇心が芽生えるだろうか。
怖ろしい虐待と強制が兄弟を締め付けていた。少年たちの心は、次第に変容していく。
ある日、母親の体罰に耐えかねた二人は、家出を決行する。しかし、逃げるところは隣町に暮らす祖母の家であった。二人は祖母の家まで歩いて逃げた。やっとの思いでたどり着き、祖母の顔を見るなりオイオイ泣き出したという。
加藤智大は、中学生になった。当時も今でもクラスメート間では年賀状をやり取りしている。生徒の習慣のようなものである。級友の女子生徒からの年賀状には「好き」のようなことが書かれていた。母親はその年賀状を取り上げ、宣言するのだ。「恋愛は認めません」と。思春期の情緒的な発育は阻害されてしまったのだ。
やがて、加藤智大は、中学3年生になり、家庭内暴力を振るようになった。ただし、母親には手を出せなかった。その代わりにモノを壊したり、母親の代用品を見つけては、ぶん殴ったりしていた。もう健全な人間育成は後戻りできないところに来ていた。
だが、高校入試まではそれでもうまく運んでいる。青森県内でも1.2位という進学校に合格できたのだ。
この時点まで、彼は表向きには決して「落ちこぼれ」ではなかった。だが、派遣社員として働き始めたころ、
人間関係の健全な育成を母親に奪われた彼は、就職しても、友人をうまく作れなかったという。
やがて、彼の境遇はSNSの世界だけになっていく。
「こんなはずではなかった。オレは、こんなはずではなかった」忸怩した思いが内省的な彼の心にどんよりと沈潜していった。
こうして、7人もの死者と多くのけが人を出した秋葉原無差別殺傷事件。
加藤智大は、本当は彼を苦しめた「母親」を消してしまいたかったのではないだろうか。
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