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財界人「中山素平」を知る

  • 執筆者の写真: 高下 豊光
    高下 豊光
  • 2021年10月2日
  • 読了時間: 3分

経済人、銀行家の「中山素平」をご存じだろうか。

日本の第二次世界大戦後の復興期から高度経済成長期の経済界をリードした財界人である。


彼の功績は、高杉良 『小説日本興業銀行(第一部~第五部)』(講談社文庫、1990-1991年) - において識見、行動力、人の心をつかむ魅力がいかんなく描かれている。

日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の頭取、会長などを歴任し、旧山一証券の救済、新日本製鉄の誕生など日本の経済・産業界の再編、競争力強化に尽力した。

日本経済に大きな影響を及ぼす節目ごとに登場して活躍する姿から、「財界の鞍馬天狗(くらまてんぐ)」(評論家草柳大蔵(だいぞう)の命名)と称された。

1906年(明治39)東京生まれ。29年(昭和4)、東京商科大学(現一橋大学)本科を卒業。学生時代に昭和金融恐慌を目の当たりにし、卒業と同時に特殊銀行だった日本興業銀行(興銀)に入行した。敗戦で、占領軍が興銀を「戦犯銀行」として普通銀行化するよう強く迫るなか、連合国最高司令官総司令部(GHQ)と粘り強く折衝し、債券を発行し産業資金を提供する長期信用銀行として存続する道を開いた。

47年には41歳の若さで興銀理事に就任。その後、戦後復興のため新たに特殊法人日本開発銀行(開銀、現日本政策投資銀行)が設立されることになると、同行に出向して開銀の立上げに尽力し、産業界の復興・振興を資金面から支えた。

1954年には副頭取として興銀に戻り、61年に同行頭取、68年に会長に就いた。資源小国、日本の将来を見据え、1958年には原油の自主開発会社、アラビア石油への銀行団融資を取りまとめた。昭和40年不況で山一証券が経営危機に陥ると、いち早く日銀特融を提唱。蔵相田中角栄の特融決断を引き出した。

62年の東邦海運と日鉄汽船の合併(新和海運設立)、66年の日産自動車とプリンス自動車工業の合併、70年の八幡(やはた)製鉄と富士製鉄の合併(新日本製鉄設立)などに深く関与し、日本の産業の国際競争力向上に大きく貢献した。


同時に、興銀を産業金融の雄に育て上げ、「興銀の中興の祖」といわれる。財界活動としては、1957年から58年に経済同友会代表幹事を務め、後に終身幹事となった。

1970年に興銀相談役に退いた後も、財界の顔として多方面で活躍した。

教育問題には造詣(ぞうけい)が深く、臨時教育審議会の委員(会長代理)を務めた。


また83年に新潟県に開校した国際大学の初代理事長を95年(平成7)まで務め、晩年まで実業人の育成に尽力した。

まさに本懐を遂げたという生き方を示した偉大な方である。


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