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親にも社会にも排除された若者、造田博

  • 執筆者の写真: 高下 豊光
    高下 豊光
  • 2021年10月8日
  • 読了時間: 3分

1990年9月8日一人の若者が池袋にやって来た。

彼の名前は、造田博(事件当時23歳)

彼は、サンシャイン通りで、通行人に襲いかかった。

白昼の惨劇である。その右手には包丁左手には金鎚を握りしめている。


彼は、尋常ならぬ雄たけびを上げた。「ぶっ殺す!」「ボケナスのアホをぶっ殺す」


足立区在住で新聞配達員のバイトで暮らしていた造田博は、倉敷市出身だ。

造田博は、岡山県を代表する進学校に身を置き、岡山大学を目標に勉強していた。

ところが彼に考えもしない災難が襲うのだ。両親が彼を残して夜逃げしてしまう。

両親はギャンブルに狂い、借金を繰り返し、厳しい取り立てに追われていた。

学校から帰宅すると、家財道具一切が無くなっていた。

それでも造田博はアルバイトを探し、なんとか高校生活を守っていた。

だが、それも限界であった。彼は、高校を中退し、福山市で働いている兄を頼った。

しかし定職には就けなかった。派遣社員が精いっぱいであった。

彼が派遣されたのは、福山市で大手の造船会社、常石造船の下請け会社、船舶塗装の会社だ。

常石造船は、フィリピンに東アジア最大の造船所を設営して成功した大手である。

造田博は、福山市を出ていくべきではなかった。

ここで頑張っていれば、両親とも再会できていただろう。

なぜ東京、なぜ足立区だったのだろうか。足立区といえば東京23区のなかで貧困率が格段に高いと云われる。

給食費を滞納している家庭は30%を超えるのだ。ここでの新聞配達での暮らしは、利口な造田にはさぞや苦痛だったに違いない。

両親から捨てられ、社会から排除された不幸な青年は、暴発する十分な理由があった。

造田博は、社会に復讐しようと立ち上がった。「復讐するは、我にあり」そう叫んで包丁をかざした。

彼の知的レベルがもう少し低いものであれば、現状を素直に容認できただろう。

派遣社員でも苦にはなっていなかっただろう。

その意味では、彼を捨てた両親も同罪だと思う。

容易に解雇できる派遣社員という制度の在り方に、造田博は異議を唱えた。

そういえば、秋葉原通り魔事件の犯人も派遣社員であった。

造田博の両親にも云えるが、不幸に襲われる人には、共通した欠点が見える。

彼らには、人生の原則がないのだ。生きる目標が欠落しているのである。

だから予期せぬ大金を手にすると、人生が狂い始める。造田博の父親は、思わぬ遺産が転がり込んで家族さえも犠牲にしてしまった。

もともと腕のいい大工であったが、遺産が入ったせいで仕事を辞めてしまったのだ。その挙句、岡山県にある競艇場通いを始めてしまう。

これは、宝くじが当たって巨額な賞金を手にした人に、人生を狂わせて不幸になる人がやたらに多いという事実と共通している。

造田博にも大学を出た後の目標がなかったのではあるまいか。

造田博、社会からはじき出された若者、彼は死刑執行をおびえながら待つ身だ。


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