自由への渇望「ヘイ・ジュード」の衝撃
- 高下 豊光
- 2021年9月19日
- 読了時間: 3分
ビートルズの代表曲のひとつに、「ヘイ・ジュード」という曲がある。
1968年、「プラハの春」とそれに伴うワルシャワ条約機構軍の軍事介入(チェコ事件)の直後、あるチェコ人女性シンガーがこの曲をカヴァーし、発表した。

彼女の名は、「マルタ・クビショヴァー」マルタは、当時のチェコのトップシンガーのひとり。
ソロデビュー曲の「マルタの祈り」(Modlitba pro Martu)という曲が大ヒットし、国民的な歌手としてチェコのみならず、他のヨーロッパの国々まで名を知られている存在であった。
この、マルタの「ヘイ・ジュード」は、その後、チェコの人々にとって、そして、チェコの歴史にとって大きな意味を持つこととなるのだ。マルタの「ヘイ・ジュード」は、プロテスト・ソングである。
多くの知識人や有名人がソ連や共産主義政権に従属してしまう中、マルタは歌で戦うことを選んだ。
この「プラハの春」は、たった4ヶ月程度で終焉を迎えることとなる。
それは、東側の盟主としてのソ連がチェコスロバキアの自由化の流れを黙って見ているわけにはいかなかったのである。1968年8月20日、ソ連率いる60万のワルシャワ条約機構軍が国境を突破し侵攻。
たった1日でプラハの街を制圧、チェコスロヴァキア全土を占領下に置くのであった。
ドゥプチェクは解任され、「プラハの春」は終わりを告げ、再びチェコは言論弾圧や検閲の厳しい、改革前の状態に逆戻りしてしまうのだ。
そんな中、マルタは秘かに当局と戦う決意をする。
当時、放送局は共産主義当局に占拠され、自由や批判を表現することはできなかった。
そこで、市民は工場の地下に秘密のラジオ局を設けて放送を流したという。
放送から流れてきたのは、マルタのカバー曲「ヘイ・ジュード」である。
歌詞を変え、暗に政府・ソ連批判や、自由への希望をチェコ語で訴える新「ヘイ・ジュード」であった。
1969年にシングルカットされた同曲は、チェコ史上空前の60万枚という大ヒットを記録した。
しかしながら、すぐに彼女のアルバムは発禁処分を受け、マルタも当局に尋問を受けることとなる。
そして、1970年、マルタは音楽界から永久追放されることとなってしまう。
それから約20年が経過し、東欧は大きな変革を迎える。
ソ連のゴルバチョフのペレストロイカに触発され、東欧の国々は民主化の動きを強めていく。
そして1989年、ついにその民主化運動が結実した。
1989年12月10日、プラハのヴァーツラフ広場。
チェコの民主革命「ビロード革命」の達成を祝う30万の群衆の前にマルタは姿を現した。
そして、人々に促され、代表曲である「マルタの祈り」(Modlitba pro Martu)を歌った。
ようやく、彼女の長い間訴え続けた自由がついに達成された。
それも、民衆の力によって無血で。
広場は熱狂に包まれ、この歌は革命の象徴的な歌として、その後もチェコで広く歌われるようになる。
歌は、不思議な力を持っている。
歌は、人々を救う力を持っている。

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