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渋沢栄一近代日本を築いた経済界の巨人

  • 執筆者の写真: 高下 豊光
    高下 豊光
  • 2021年9月21日
  • 読了時間: 3分

彼が生涯に設立した会社はおよそ500社に上る。

さらに彼が関与した公共事業は600にもなっている。

彼が幕末から明治の日本にいなかったなら、日本の資本主義は遥かに遅れていただろう。

その名前を記憶して欲しい。新しい時代を築いた「渋沢栄一」である。

1840年、現・埼玉県深谷市の豪農に生まれた渋沢栄一。

黒船来航の騒然とした世の中に投げ出された渋沢栄一は、やがて攘夷論に魅せられる。

江戸に出た彼は、一ツ橋家の用人攘夷論者の平岡円四郎と知己になった。

平岡円四郎は、将軍後見職「一橋慶喜」の懐刀として実権を握っていた。彼は、渋沢栄一に仕官しないかと誘ったのである。その縁が実を結び15代徳川慶喜に仕えることとなった。渋沢は、1867年開催のパリ万国博覧会の日本代表団の随行員としてパリへ派遣される。

現地で1年半滞在し、万博事業のかたわら銀行業や会社組織のあり方など、欧州の先進的な経済の仕組みに衝撃を受けた。

この時の経験が、渋沢栄一のその後の人生観を大きく変えることになった。

帰国後、明治政府に出仕し、国立銀行条例の起草に参画する。この条例に基づき1873(明治6)年、日本最初の銀行「第一国立銀行(現・みずほ銀行)」を設立した。

これは、民間の銀行であり、資本金の3分の1は公募で賄ったため、第一国立銀行は日本初の株式を採用した会社となり、頭取には渋沢栄一が就任する。

さらに1878(明治11)年、東京証券取引所の前身である東京株式取引所を設立した。会社設立や起業支援などにも尽力し、設立に携わった企業数は約500、そして、大学や病院などの非営利団体の設立にも約600団体関与している。

後に上場企業や名門大学へと成長した組織も多く、現在の日本経済の礎を築いていく。

渋沢栄一が関わった企業は、株式会社の形態を採用し、広く民間から出資を募って大企業へと成長するのだ。当時の財閥路線とは一線を画す経営戦略であり、一族で固めずに有能な経営者を積極的に登用し、利益を独占するのではなく、社会へ還元させることが国全体を豊かにすると考え、一貫して開放的な経営を行う。

渋沢栄一の根底にある考え方は「道徳経済合一」という理念で、これは、道徳と経済は両立させなければならないという意味である。当時、公益を追求する「道徳」と利益を追求する「経済」は、お互いが相容れないように解釈されており、いわば武士道と商人道は相反するとされていた時代でもある。

利益を生む根源は「仁義道徳」であるとし、経営とは利益を最大化させることが目的ではなく、本業を通しての社会貢献にこそ真の目的があり、また正しい行為から得られた利益でなければ、その会社は永続出来ないと説いている。

道徳と経済の両立を社会へ訴え、行動し続けた先駆けの人物でもあった。

だが、企業活動において道徳の必要性や重要性を考えさせられるニュースが頻繁に報道されている。テレビカメラの前で謝罪する経営者を見ない日はなかった。不祥事を起こす老舗企業も珍しくはない。ピータードラッガーが名著「マネジメント」の序文で渋沢栄一について述べている。経営の神様をして、いち早く経営の本質を見抜いたその眼力を称賛している。

渋沢財閥を作ることに否定的であったことは、彼の子孫は繁栄とは無関係であったことからも偲ばれるのだ。そして、1万札のデザインはこの渋沢栄一となる。


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