渋沢栄一と岩崎弥太郎、仁義なき消耗戦
- 高下 豊光
- 2021年11月16日
- 読了時間: 3分

まだ列車もトラックもないころのこと。海運が物流の大動脈だった。日本の海運を独占する三菱。
「三菱の専横許すまじ」といっても、三菱以外にまともな海運会社がない。対抗しうる海運会社を設立すべし。
渋沢栄一や井上馨が画策、政府の出資を核に、三井など反三菱勢力が結集した。明治15年7月、共同運輸会社誕生。
社長には伊藤雋吉(としよし)海軍少将が就任。有事の軍事転用を条件に政府の助成が与えられた。が、実際には平時の貨客輸送、それも三菱への挑戦である。
翌年16年1月、共同運輸は営業を開始した。またたくまに三菱とのダンピング合戦の泥沼に突入する。三菱は次第に共同に食われ、不採算路線の廃止、経費節減・人員削減と、大幅リストラを迫られる。旅客運賃は20~30%オフ。団体は現場の判断で臨機応変に割引し、貨物に至っては、3割引4割引は当たり前となった。当時の新聞には、「タダで乗せろ、嫌なら三菱に行くと言ったら、タダになった」とか、「三菱の方はタダの上に景品まで出すそうだ」といった話まで出ている。
運航の現場もヒートアップした。両社同時刻出航の場合は、煙突を真っ赤に焼きながらの抜きつ抜かれつの要らぬ競争を繰り広げ、ついには衝突事故まで起こす始末。余りのひどさに西郷従道農商務卿が乗りだし、運賃、出航時刻、代理店、乗組員等に関する30条の協定を両社に結ばせる。しかし死闘を展開している現場は聞く耳を持たない。協定はたちまち反故になる。そんな中で彌太郎は胃痛に苦しんでいた。
17年の夏からは食事もまともにとれなかった。伊豆の別荘で静養もしたが快方に向かわない。10月末には東京に戻って茅町本邸の床に伏した。最新の医療機器が持ち込まれ、東大病院のドイツ人教授を含む医師団が懸命に治療にあたった。それでも彌太郎は意気軒昂で、激痛にたえながら病床で指示を出し続けた。
だが、死神は待ってくれない。ついに命が尽きる時が来た。明治18年2月だった。胃癌で死去した。岩崎彌太郎、享年50。生涯をかけて築いた海運事業が存亡の危機に瀕している時だった。死んでも死にきれない無念の死であった。弟の彌之助がすかさず三菱を継いだ。「…亡き兄の宿志を継ぎ、不撓不屈奮励の所存である…」と悲愴な宣言をする。
だが、三菱にも共同にも体力の限界がある。バカな戦いをやめさせなければ民族資本の海運会社は共倒れになる。18年4月、政府はハラを決め、共同の海軍出身の社長を更迭。その上で、三菱・共同の首脳会談をセットした。川田小一郎(かわだこいちろう)と井上馨のギリギリの話し合いで両社の合併が決まり、伊藤博文、松方正義ら実力者も諒解した。彌之助は「…たとい三菱の旗号は倒れ…実に忍ぶべからざるの事情これあるとも…国の大計に鑑み」共同との合併を受け入れることにした。
かくして、明治18年『日本郵船』が発足した。出資比率は三菱5対共同6。新社長には共同の森岡昌純が就任している。三菱は海運事業部門を手放したが、共同の株主には多くの三菱関係者が含まれていたので、日本郵船の多数派は実質的には三菱だった。
それゆえに、日本郵船は時間の経過とともに三菱色を強め、吉川泰二郎(よしかわたいじろう)や近藤廉平(こんどうれんぺい)ら三菱出身者が社長になった。こうして、岩崎彌太郎が夢見た日本の船による世界航路を実現したのだった。
その昔、坂本龍馬が夢見た海援隊の未来像であった。

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