海は蘇る--山本権兵衛の戦い
- 高下 豊光
- 2021年9月13日
- 読了時間: 2分
帝国海軍の父とよばれる山本権兵衛の半生を中心に、近代国家としての日本の黎明期 (れいめいき) を描く。

日清戦争に勝利した日本は、軍隊の近代化に取り組んでいた。明治29年から38年の間に、海軍において無謀ともいえるプランを練る。
それは、戦艦4隻、重巡6隻を含む103隻、15万3千トンという艦船を建造して配備するという大規模なものであった。
当時は、まだ大型艦艇は海外に発注していた。ところが、海軍の予算は明治33年に底をつきはじめていた。
海軍大臣山本権兵衛は、頭を抱えていた。彼は、内務大臣西郷縦道を尋ねて相談する。
「権兵衛どん、その戦艦は、どうしても必要になるのか」
「もし、ロシアが見込み道理に南下してくれば、戦艦が無ければ戦は出来ない」
「ロシアとの戦か」
「今から注文しても間に合うかどうか、心配でしょうがなか、心配で夜も眠れん」
「よし、内務省も総出で加勢しよう。もし、議会で追及されたら、二重橋の前で二人で腹を切ればよかろう」
山本権兵衛は、西郷の言葉で吹っ切れたという。「戦艦が手に入れば、おいどんたちの命よりも値打ちがある」
山本は、政府と海軍のあらゆる規則を無視して、1万5,140トンの戦艦をイギリスのヴィッカース造船所に発注する。
完成した戦艦は、日露戦争海戦より2年前に日本に引き渡されたのだ。その戦艦は「三笠」と命名され、日本海軍の旗艦となった。
そして、日本海大海戦で活躍し、二人の決断は日本を救ったのである。
さらに、山本権兵衛は、連合艦隊の司令長官に「東郷平八郎」を任命した。
明治天皇からその理由を尋ねられた山本は、東郷は運のいい男ですから、とお答えしている。

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