明治期の新聞はマスゴミだった
- 高下 豊光
- 2021年12月11日
- 読了時間: 2分
伊藤博文といえば、幕末の志士として東奔西走し、さらに明治日本を支えてきた
実力政治家である。では、明治時代の新聞がどのように報道してきたか。

検証してみたい。
伊藤博文は、初代の内閣総理大臣を皮切りに、第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣を勤めている。
さらに明治憲法の起草に関わり、初代枢密院議長、韓国統監府統監、貴族院議長を歴任する。
それだけではない。立憲政友会を結成し、初代の総裁になっている。
また、貧農の生まれから、立身出世の体現者であると称賛されることもある。
幼少時に父親が武家奉公人の養子となったことから下級武士扱いの身分を得ることができた。伊藤博文は、少年時代から利発で知識欲が旺盛であったという。
長じて松下村塾の吉田松陰に師事する。
その後の活躍はご存知の通りである。皆さんが知っている伊藤博文は、品行方正な表の顔で、実際には幕末の志士の頃からの常識外の女好きであった。
当時の新聞には、伊藤博文の醜聞が連日報じられたという。「強姦まがいに女性をいたぶった」というのはまだいい方である。1887年に自分が主催した「大夜会」では、美人と評判の戸田極子伯爵夫人を庭園の茂みに連れて行った。ところが、しばらく後で夫人が、はだしのまま逃げるように走り出てきた、と報じられている。
さらに、伊藤博文の女性スキャンダルは加熱する。明治期の新聞は、まるで現代の芸能週刊誌の様相を呈している。
当時の新聞は、政府高官であろうと容赦しなかったという。
だが、伊藤博文は、ゴシップ記事など笑い飛ばすほど国民から支持されていて、人気が高かった。
なお、伊藤博文の葬儀は国葬として行われた。参列者は30万人を超えたと記録にある。彼は、誰に対しても親しみのある態度で接し、会話上手であった。確かに女狂いの1面は隠せなかったが、国民が嫌いとする私腹を肥やすことをせず、清廉潔白な政治家であった。
コメント