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日清戦争勝利を呼び込んだ乾電池

  • 執筆者の写真: 高下 豊光
    高下 豊光
  • 2021年9月21日
  • 読了時間: 2分

1863年、現在の新潟県長岡市に生まれた屋井先蔵は、幼いころから天体や水車、コマなど回り続けるものに目がなかった。


彼は、13歳で奉公に出て時計店で働くようになる。たちまち、精密に回り続ける歯車のとりこになった。


そして「永久に運動を続ける『永久機関』をつくりたい」という夢を抱くようになるのだ。

その後屋井は、機械について専門的に学ぼうと上京し、東京職工学校(現在の東京工業大学)への入学を目指す。ところが、2度目の受験の際、正確な時計が周囲になかったために遅刻してしまい、不運にも受験できなかった。

当時の時計は手動のゼンマイ式が主流で、街中で目にできる時計が示す時刻もバラバラであった。

屋井は、このときの経験が引き金となって、電気で常に正確に時を刻む「連続電気時計」の開発に、情熱を注ぐようになる。

彼の不断の努力によって「連続電気時計」は完成した。だが、売れ行きは期待したほどではなかった。

売れなかった理由は、電源に使っていた液体電池(湿電池)に、「冬になると内容物が凍り付き使えなくなること」、さらに「ひんぱんに液漏れが起きるのでメンテナンスが面倒」といった欠点があったためである。

そこで屋井は、課題を解決すべく新たな電池の開発に着手する。日中は親戚が営む工場で働きながら、それ以外のほぼすべての時間を研究と開発に費やした。

そして試行錯誤の末に、薬液が浸み込んだパラフィンで炭素棒を固めて、液漏れしにくい改良電池をつくりあげるのだ。

この発明品は、「湿電池」に対して「乾電池」と名づけられる。

その当時の日本では電気製品が普及していなかったため、屋井の乾電池は思うように売れなかった。

だが、乾電池のための神風が吹き荒れるのだ。それは1894年からはじまった日清戦争であった。

厳冬の満州で照明や通信機器を使用するための電源として屋井の乾電池に白羽の矢が立ち、ようやく日の目を見ることになった。

新聞でも「日本がこの戦争に勝利したのは、屋井が発明した乾電池のおかげ」と大きく取り上げられた。

屋井の乾電池は知名度と信頼度が一気に上昇したのである。

今でこそ、身の回りに乾電池があるのが当然だが、便利になったのはひとりの青年が試験に遅刻したことからである。その挫折をエネルギーにしたことで、現代の世の中にまで通じる偉大な発明品となったのだ。

乾電池は腕時計や懐中電灯から自動車にまで搭載される。

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