戦後は東大生の山崎晃嗣から始まった
- 高下 豊光
- 2022年2月19日
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1948年(昭和23年)9月、東大生の山崎晃嗣(やまざきあきつぐ)は、友人の日本医科大生三木仙也とともに貸金業「光クラブ」を東京中野の鍋屋横丁に設立した。

社長は山崎、専務は三木、常務は東大生、監査は中大生であった。そのビジネスモデルとは、周囲の目を引く画期的な広告を大きく打ち、多額の資金を調達して、その集めた資金を個人商店、企業などに高利で貸し付けて、利息を稼ぐというものであった。
昭和23年当時の銀行金利は年利1.83%で、銀行に1年間預けても月間の利息は約1,500円であった。
それを、光クラブの場合は、客が出資者として100万円を出資すれば月に15万円ほど配当をもらえる(年利約18%)というものであった。 この光クラブの刺激的な宣伝広告は大ヒットし、しかも、東大生らが中心となって経営するというニュースは、日本で話題性を集めて、開業4ヶ月後の1949年(昭和24年)1月には、光クラブは本社を東京中央区の銀座に移転し、資本金400万円、社員30人を擁する会社にまで発展する。 しかし、同年7月4日に山崎が物価統制令違反で逮捕(後に不起訴)されると、出資者らの信用を失い、光クラブの業績が急激に悪化する。その後、社名のみを変更してさらに資金を集めようと図るも成功せず、経営はますます悪化していく。 山崎は最後の手段として株の空売りで資金調達を試みるがうまく行かない。11月24日深夜、約3000万円の債務を履行できなくなった山崎は、債務返済の前日、本社の一室で青酸カリをあおり、遺書を残して服毒自殺した。その僅か数日後、山崎が空売りしていた株は大暴落し、多額の利益を生み出したという。 当時の朝日新聞が山崎晃嗣の遺書を詳細に報じている。さすがは東大法学部の秀才だけあって言葉遊びのような心の余裕を感じさせる。彼の遺書から二三抜き出してみる。 貸借法すべて清算カリ自殺、だがあと数日株式の暴落が早ければ、山崎晃嗣は服毒を免れただろう。 出資者諸兄へ、陰徳あれば陽報あり。隠匿なければ死亡あり。あぶはち取らずの無謀かな。 高利貸し冷たいものと聞きしかど死体さわれば氷貸し。 戦後間もない昭和24年(1949年)11月24日東大生社長山崎晃嗣は27年の短い生涯を閉じた。 起死回生を目論んだ山崎の株式カラ売りだが、数日後に暴落し多額の利益を産んでいたそうだ。惜しい。 三島由紀夫の「青の時代」は、この光クラブ事件を題材にしている。本人は、この小説は失敗作であると述べているが、戦後の経済的混乱期を活写している。そういった意味でも、読む価値は十二分にある。
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