後藤新平が、正力松太郎を見出した
- 高下 豊光
- 2021年12月17日
- 読了時間: 2分
自ら逆境に飛び込み、それを千載一遇のチャンスに変えた新聞王、
彼の名は「正力松太郎」であった。

読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれた。
さらに、彼は導入を強力に推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。
正力は、東京帝国大学法科を卒業し、内務省に入省する。ところが、1923年(大正12)12月に「虎ノ門事件」が発生する。
これは、一人の無政府主義者によって、摂政官(のちの昭和天皇)が、杖に仕込んだ銃で狙撃されるという畏れ多い事件であった。
当時警視庁警務部長であった正力は、警視総監の湯浅倉平とともに引責辞職する。
正力は、自ら望んで辞職したのだ。それは、警視総監に類を及ぶのを恐れたせいでもあった。
やがて、警視庁を免職になった正力のもとに、業績不振の読売新聞を面倒見ないか、という依頼が舞い込んだ。
それをもたらしたのが、内務大臣・後藤新平である。後藤新平は、虎の門事件の処理のため正力松太郎には何度も会っていた。
正力は、すぐに決断できなかった。私には、経営の経験はない、だがやってみる価値はある。彼が迷っていると、後藤新平は、これから新聞は大きく発展するはずだ。特にこれからは広告宣伝の時代がくる、と持論を説いた。
読売新聞社は、経営者が死んでいて、関東大震災の影響があり、破産寸前であった。当面の運転資金が必要であった。
そこで正力は、大磯の別荘を訪ねた。後藤新平に無心するためであった。後藤は別荘の土地の権利書を正力にさし出し、「これを持って三井銀行の頭取のところへ行け」と云った。「これなら10万円(当時の)にはなるだろう。読売の経営はお前がやれ」と続けて云った。
後藤新平と正力松太郎は、何度かアイデアを出し合ったが、なかでも、ラジオ番組欄を紙面に載せたのは、二人の発案であった。
この紙面は、その後新聞のスタンダードになっていく。おかげで読売は部数を倍増させるのだ。
しかし、後藤新平は、虎の門事件の後処理で、数回正力に会っているだけである。
それなのに、借入金の保証人になったり、運営上のアイデアまで出している。なぜだろうか。
それは、後藤新平が、正力松太郎が示したすぐれた判断力、積極果断に行動する資質、大局観から物事を捕えようとする眼力、とりわけ
虎の門事件でみせた胆力にほれ込んだせいに違いない。
その事件では、正力はあえて贖罪の道を選んでいる。後藤新平がそれを知らないわけではなかった。
やがて、読売巨人軍の創設に尽力する。正力と後藤の出会いがなかったら、戦後は、今のような戦後ではなかっただろう。
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