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平櫛田中が生前好んだ言葉

  • 執筆者の写真: 高下 豊光
    高下 豊光
  • 2021年12月13日
  • 読了時間: 2分

この方は、107歳で他界されているが、90歳で文化勲章を受章している。

そして、なんと98歳のときにアトリエを新築した。

また、100歳を迎えた際に直径2㍍のクスノキ材を3本買いこんでいる。

これは、およそ30年分の彫刻材料であった。

平櫛田中が生前好んだ言葉は、書に残されている。



「六十七十ははなたれこぞう 男ざかりは百から百から」

「いまやらねば いつできる わしがやらねば たれがやる」

では、先生の足跡を見て行こう。

玉川上水は江戸市中への給水のため作られた、多摩川の羽村取水口から四谷大木戸まで43キロを流れる水道である。武蔵野の緑豊かな清流の文化遺産だ。その玉川上水が通る小平市の静かな住宅地に「平櫛田中彫刻美術館」がある。 平櫛田中は明治・大正・昭和の3代にわたって日本の彫刻界をリードした巨人である。その功績により文化勲章を受章した田中は、昭和54年に小平市で107歳で亡くなり、その邸宅が小平市平櫛田中館になった。

その後に展示館が新築され、二館併設のいまの美術館になっっている。

邸宅は国立能楽堂を模した設計で、ゆったりと落ちついた書院ふうの住居である。

平櫛田中は明治5(1872)年6月1日、岡山県のいまの井原市に生まれている。 名前は倖太郎といいました。幼いころ広島県福山市の平櫛家に養子として迎えられている。小学校を出た悼太郎は遠縁にあたる大阪の商家へ丁稚奉公に出た。そして休日には文学座の人形芝居を楽しみにし、美術雑誌 『国華』 を読むようになる。『国華』 には生涯の師として仰いだ岡倉天心やフェノロサが執筆しており、こうして美術への関心を膨らませていく。 21歳になった倖太郎は人の紹介で木彫の人形師・中谷省古に弟子入りした。そこは職人の世界で、刀物研ぎばかりさせられている。またそのおかげで刀の性質を知ることになり、彫刻の基本をたたきこまれたという。

25歳のとき、倖太郎は近代彫刻を学ぶため東京へでて高村光雲の弟子になり、はじめ「田仲」と号している。

日本彫刻会第一回展に 『活人箭=かつじんせん』 (明治41年) を出品している。

この禅僧が弓に矢をつがえてふりしぼった姿は禾山から聞いた故事がモチーフで、天心から高い評価を受けた。現在、JR福山駅の駅前広場に展示されている。 大正2年の 『尋牛=じんぎゆう』 は、山奥に牛をさがして歩く中国の老人の像である。あごひげを伸ばし、金つぼまなこで前かがみになった男の姿は、彫刻の未来を求めて歩きつづける自分の姿を示しているのかもしれない。

この『尋牛』をはじめ、『法堂二笑』『灰袋子=かいたいし』 『維摩一黙』など仏教をテーマにした木彫群を生み出したころから号を「田仲」から「田中」に改めている。

 
 
 

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