平和の祭典オリンピックの"平和宣言"
- 高下 豊光
- 2021年10月30日
- 読了時間: 2分
1964年10月10日、日本は、戦後の終わりを世界に向けて宣言した。
それが東京オリンピック開催である。

聖火が国立競技場に入ってくる。その選手「坂井義則」は、このとき19歳。彼は、原爆が投下された日、1945年8月6日に広島で生まれた。彼が聖火ランナーに選ばれたのは偶然ではない。
東京オリンピックは、平和を国家のテーマとした日本の再出発の証であった。
聖火台まで駆け上がった坂井義則によって、聖火は勢いよく空に向かって燃え上がった。
ブルーインパルス5機が飛来し、上空に五輪を描いていく。競技場の大歓声はさらに大きくどよめいた。
衛星中継で米国までこの映像が届けられた。
当時のIOC米国人会長「エイブリー・ブランデージ」は、日本の手際のよい運営と温かい歓迎ぶりに感動し、「過去最高のオリンピック大会」と讃えている。
開催期間中の日本人は、あたかも国家の存亡がかかっているかのように、選手のメダル獲得を見守った。
日本中の興奮は、女子バレーボールの決勝戦に頂点を迎えるのだ。当時この競技ではソ連が最強国であった。
「東洋の魔女」--それが日本選手に贈られた称号だ。息詰まる攻防が続いたが、彼女たちはストレートでソ連を下す。勝利の瞬間、日本中が歓喜に湧いた。
男子マラソン銅メダルの円谷幸吉や男子柔道、重量挙げなど記憶に残った場面は多い。
開会宣言を行ったのは、昭和天皇であった。天皇は戦争責任を訴追されることなく、日本国の象徴としての存在を東京オリンピックで諸外国に認められたのである。
1964年当時、まだ貧しい日本人も多くいた。戦災復興から経済発展を経て、電化製品の普及がすすみ、暮らしぶりは豊かさを実感できるようになっていく。
東京オリンピック当時、どこの家庭にも笑顔が絶えなかった。どこの家庭でもけんかをする子供たちがいた。子守をするお年寄りがいた。
バブル経済を経て、失われた時間は帰ってはこない。今では生活を便利にしてくれる道具や製品はわれわれの周囲には腐るほどある。
--しかし、ないものがひとつだけある。それは希望だ。---作家村上龍

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