巨匠は、映画と云う斜陽産業と抗った
- 高下 豊光
- 2021年12月31日
- 読了時間: 2分
ハリウッド映画に多大な影響を与えた黒澤監督の代表作「七人の侍」は、誰でも観たことがあると思う。だが、「七人の侍」は、脚本作りの渦中に監督は大変苦労したという。

そのために神経衰弱になり、入院を余儀なくされたのだ。とんとん拍子に物語の骨組みができたわけではなかった。台本が出来上がるまでに、七転八倒の苦しさがあったという。
侍たちの日常生活とはどんなものだったのだろう。それから始まって、彼らは、旅に出ればどんな暮らし方をしたのだろうか。百姓の家にも泊めてもらったのだろうか。頼みごとをされることがあったのか。
困って百姓に頼みごとをされることはあったのか。それは、命をやり取りすることであったのか。
などと、黒澤明監督は、夜になっても眠るどころではなかったのだ。
これでは、"映画監督という病"と云ってもよいほどだ。まして、作品がヒットしなければ、巨額の借金を背負い込むことになる。事実、監督は1965年に「赤ひげ」を撮った後は、テレビ全盛期の時代になり、映画は斜陽産業とまで云われたのだ。

生活に困るようになった監督は、それならばと米国での合作や国内ではテレビ映画を企画する。だが、それらはどれ一つとして成功しなかった。その後「どですかでん」を発表した。
借金を返せぬままに、苦楽を共にしてきた技術スタッフが、次々と監督の元を去っていった。そして--黒澤明監督は、カミソリ自殺を図ったのだ。映画監督で成功を収めても成城の自宅はずっと借りた家であった。幸いにも自殺未遂に終わった。
もし、この時の自殺が成功していたら、その後の作品は存在しなかったのだ。「影武者」も「乱」も「八月の狂詩曲」も我々が観ることはできなかった。
黒澤明監督は、1998年に88歳で亡くなられた。巨匠は、身体も心も傷だらけになりながら映画製作と格闘していた。
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