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官業を食った宅急便小倉昌男の流通改革

  • 執筆者の写真: 高下 豊光
    高下 豊光
  • 2021年9月14日
  • 読了時間: 3分

小倉昌男は、旧国鉄の小荷物や郵便局の小包等のお役所仕事を果敢に奪い取った。

流通革命を起こした彼だが、そのため、運輸(現国土交通)省や郵政(現総務)省からは徹底して厭がらせを受けたのだ。

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それでも小倉昌男は怯まず、役所を訴えて、遂には路線許可等を認めさせた。

世界に冠たる「官僚国家」の日本で、彼らとケンカして勝った経営者は小倉昌男以外にはいない。


“官業を食った男”は“官僚に勝った男”でもある。

では、彼の経歴をざっと見ておこう。

小倉昌男氏は1924年、大和運輸(現・ヤマト運輸)を創業した父・康臣と母・はなの次男として生まれた。

父・康臣は、中学を中退してさまざまな職業に就いたのち、銀座などで車を引いて野菜を売り歩きながら資金を蓄え、1919年、30歳の時に貨物輸送の大和運輸を創業している。立志伝中の人物でもある。 幡代尋常小学校を経て7年制の東京高等学校(通称・東高)に進んだ小倉昌男氏は、イギリスの名門パブリックスクール、イートン校を模範に「ジェントルマンの養成を目指した」という。

彼は、生徒の自主性を重んじる校風の中、勉強よりもテニスや読書に熱中する生活を送った。

いずれ父親の会社を継ぐことになると考えていた小倉昌男氏は、「東京大学」の経済学部商業科に進学する。

しかし、時代は戦争真っただ中であった。1944年10月、大学を休学して第一予備士官学校に入校した小倉昌男氏は、8カ月の訓練を経て独立野砲兵第三十三大隊に配属されるが、間もなく終戦を迎え、東京大学に復学した。 東京大学を卒業した小倉昌男氏は1948年、大和運輸に入社する。

駐留米軍関係の仕事に従事したが、数カ月後に肺結核を患い、4年半に及ぶ休職と長期療養を余儀なくされるのだ。

その間、小倉昌男氏は「社会のために何の役にも立たないのに、一体自分は何のために生きているのだろう」と悩み、心が苦しく、死を考えたこともあったという。さすがは東大出のエリートである。悩みの程度が違うと思う。

やがて、病気から回復した小倉昌男氏は、復職から8カ月後の1953年7月、大和運輸の子会社である静岡運輸に総務部長として出向した。そしてここでとても貴重な経験をするのだ。 同社は業績は赤字続き、就業規則なども整備されていないという、失礼ながら情けない会社であった。

だが、小倉昌男氏は勉強しながらそれらを整えていくのだ。同時に、労働基準監督署から不良事業所としてにらまれるほどの交通事故の多さに悩まされ、改善に向けて取り組むことになる。

労働基準監督署の署長から「模範的な事業所」として紹介された木工の工場を訪ねると、そこには壁いっぱいに大きな文字で「安全第一、能率第二」と書いた紙が貼ってある。工場の経営者によると、「安全も能率も追い求めるとどちらも中途半端になる。

大切なのは『どちらが第一で、どちらが第二か』を示すことで、それで初めて安全が優先される」というのであった。

小倉昌男氏は、頭にガツンと一撃を食らったような気がした。

1976年に宅急便をスタートさせた小倉昌男は、事業を拡大させる過程で、運輸省(現・国土交通省)や郵政省(同・総務省)などを相手に、規制と闘い続ける。ヤマト運輸(現・ヤマトホールディングス)という民間企業の経営者にもかかわらず、より良い社会を実現するのに、国の規制が邪魔をしているならば、果敢に異議を申し立てる。

小倉昌男は、規制と闘う姿勢を崩さなかった。官僚にビジネスを任せていると、国家経済は崩落してしまうのだ。

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