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天平4年、天然痘のパンデミックの衝撃

  • 執筆者の写真: 高下 豊光
    高下 豊光
  • 2021年9月20日
  • 読了時間: 3分

日本の中央政府は、8世紀初頭までに中国にならった疫病のモニタリング制度を導入していた。そのため、国内で疫病が発生した際には朝廷への報告が常に行われるよう公式令で定めていたという。


この制度の存在により、735–737年に発生した疫病の際にも詳細な記録が残されることとなった。


それらの記録は『続日本紀』他の史料に残されており、流行した疫病が天然痘であったことを伝えている。


出土した食器類の検査によって、パンデミックの後で、大皿での集団会食を止めて、小皿に料理を小分けして感染拡大を抑えるなど食生活が変容している。

天然痘は735年(天平7年)、大宰府管内である九州北部で発生したと記録されている。

平安時代末期に書かれた歴史書によれば、735年の流行の感染源となったのは「野蛮人の船」から疫病を移された1人の漁師とされている。

一方で、発生地から見て遣新羅使もしくは遣唐使が感染源である可能性が高いとする見方もある。

735年8月までに九州北部では天然痘が大流行しており、事態を受けた大宰府は8月23日、管内(九州)の住民に対する当年度の税の一部(調)を免除するよう朝廷に要請し、許可された。

翌736年(天平8年)になっても九州での流行は続き、農民の多くが天然痘により死亡、もしくは農地の放棄に追いやられ、収穫量が激減したことで飢饉が引き起こされた。736年2月、聖武天皇は新たに遣新羅使を任命し、4月には阿倍継麻呂を団長とする使節団が平城京を出発した。

使節団は九州北部を経由して新羅に向かったが、一行はその道中で天然痘に感染し、随員の雪宅満は新羅に到達する前に壱岐で病死した。

その後、大使の阿倍継麻呂も新羅からの帰国途中に対馬で病死し、残された一行が平城京に帰還すると本州にウイルスが持ち込まれ、737年(天平9年)には天然痘が全国的に大流行することとなった。

737年6月には平城京で官人の大多数が罹患したため、朝廷が政務の停止に追い込まれる事態となった。


さらに、737年7月には、大和国、伊豆国、若狭国、伊賀国、駿河国、長門国の諸地域が相次いで天然痘の大流行を報告した。

737年8月には、流行の拡大を受けて税免除の対象が九州だけではなく日本全国の地域に広げられた。737年の流行は庶民だけではなく全ての階級の日本人を襲い、死亡した多くの貴族には藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂という当時の国政を担っていた藤原氏の四兄弟も含まれていた。天然痘の流行は738年(天平10年)の1月までにほぼ終息した。

日本史の研究者ウィリアム・ウェイン・ファリス (William Wayne Farris) が、『正倉院文書』に残されている当時の正税帳を利用して算出した推計によれば、735–737年の天然痘による日本の死亡者数は当時の総人口の25–35パーセントに達しており、一部地域ではそれをはるかに上回る死亡率であったという。


ファリスの推計に従えば、この時期の日本では100万–150万人が天然痘によって死亡していたことになる。

この疫病の大流行は、奈良時代のターニングポイントになった出来事である。

のちに造られる東大寺の大仏も、この疫病が建立の要因となった。

長い間、人々を苦しめ続けた疱瘡。その苦しみから解放されるのには、種痘が発見され、世界中に普及した二十世紀を待たなくてはならなかった。


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