三原山を自殺の名所にした新聞の罪
- 高下 豊光
- 2022年1月31日
- 読了時間: 2分
1933年、昭和が始まって8年目、一人の女性の自殺が新聞に大きく報じられる。
女性の名前は「松本貴代子」といった。実践女学校専門部国文科2年に籍をおく21歳の
女学生であった。

彼女は、その年の2月上旬、父親に「三原山の煙を見たら、私の位牌と思って」と言い残して家を出た。そして、親友の富田昌子に自分の死を見届けてくれるように頼み込み、2月11日の夜、船で大島へと向かう。
明けて2月12日、三原山の火口に到着する。富田昌子は、思い直してよ!と叫んで彼女を止めようとした。
だが松本貴代子は、遺書を富田に渡し、さようならと云って飛び込んだ。
富田昌子は、貴代子の自殺を目の当たりにし、錯乱する。彼女は泣き叫びながら火口周辺を彷徨っていた。だが、その後調査が進んで意外な事実が判明する。
なんと、富田昌子は、その1ヶ月前にも他の友人の自殺に立ち会っていたのだ。
しかも場所も同じ三原山であった。
当時の新聞各社は、猟奇事件として自殺した友人ではなく、富田昌子に焦点をあてて報道するのだ。おかげで彼女は世間から猛烈なバッシングを浴びる事態となった。
テラスハウス出演者の木村花さんのような気の毒なことになってしまう。
連日、死神、狂人、変人などと罵られるのだ。そして4月29日に実家で謎の死を遂げる。
罵倒を苦にした自殺とも、過度なストレスによる持病の悪化とも云われたが、結局真相は現在にいたるまで謎のままである。
--しかし事件は終わらなかった。むしろ本番はここからであった。
富田昌子が報じられて以降、三原山は見物人のメッカとなってしまい、休日ともなれば1500人もの野次馬でごった返す事態になる。そのほとんどは自殺志願者だったという。
1933年の三原山での自殺者は、1000人を下らない。この1933年という年は、ナチス政権がドイツに誕生し、日本が国際連盟から脱退したキナ臭い時代であった。
1933年12月16日、三原山は突如噴火した。
それから、三原山で身を投げる人は、めっきり減ることになる。
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