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“イマジン”が平和を優しくつつみ込む

  • 執筆者の写真: 高下 豊光
    高下 豊光
  • 2021年12月16日
  • 読了時間: 3分

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1973年8月。

ニューヨーク・タイムズの汽車シドニー・シャンバーグ(サム・ウォーターストン)は、特派員としてカンボジアの首都プノンペンに来た。

当時のカンボジアはアメリカを後楯にしたロン・ノル政権と、反米・救国を旗印に掲げた革命派勢力、クメール・ルージュとの闘いが表面化した時期でもあった。

カンボジア人のディス・プラン(ハイン・S・ニョール)が、現地で彼の通訳・ガイドとして仕事を助けてくれることになった。

翌74年に入って、革命派のプノンペン進攻は目前に迫った。


外国人や政府関係者は、必死に国外へ出ようとかけずりまわり、プランの家族も、シャンバーグの手を借りて、無事にアメリカへ旅立った。

同年4月、プノンペン解放、ロン・ノル政権はついに崩壊、新しくクメール・ルージュを率いる「ポル・ポト政権」が誕生した。

シャンバーグ、プラン、そしてアメリカ人キャメラマンのロックオフ(ジョン・マルコヴィッチ)、イギリス人記者のジョン・スウェイン(ジュリアン・サンズ)は、病院に取材に行くが、クメール・ルージュの兵士に逮捕される。

プランは三人の命の恩人となったのである。四人は最後の避難所であるフランス大使館へと逃げ込むが、やがて、カンボジア人であるプランだけが、クメール・ルージュに引き立てられ、どこかへ連行されていった。

数日後、シャンバークたちは無事、国外へ避難することができたのだが---

ニューヨークに戻ったシャンバークは、プランの身を案じながらも、カンボジアの取材記事でピューリツッァー賞を受賞した。

この栄誉はすべてプランのおかげだった。

受賞式の日、ロックオフがシャンバーグを訪れ「あの賞が欲しくてプランを脱出させなかったんだな」となじるのだった。

その頃、プランは、過去の身分を隠し、クメール・ルージュの監視下で労働していた。

町の住人たちは農村で強制労働させられ、子供が親をスパイするという惨状の中で、数え切れないほどの人々が殺された。

やがて、辛くも脱走したプランは累々たる屍を踏み越えて、とある村にたどりつき、村の長の家でハウスボーイとして働くようになる。

しかしその主人もクメール・ルージュに殺されたため、託された少年とともに村を脱出。途中、地雷で少年は死にする。

プランが死ぬ思いをしながら、タイの難民キャンプにたどりついたのは、79年も秋になったころだった。

プラン生存の連絡を受けたシャンバーグは、タイの難民キャンプへ飛んだ。

ようやく、彼らは再会を果たすのだった。

「許してくれ」とシャンバーグ。

「許すことなどないよ」とプラン。

抱き合う二人をカーラジオから流れるジョン・レノンの“イマジン”が優しくつつみ込んでいた。

何度観ても泣けてくる。

見逃した人には、激しくおススメ。

 
 
 

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