やんちゃ坊主だった本田宗一郎
- 高下 豊光
- 2021年9月11日
- 読了時間: 3分
本田技研工業創業社長・本田宗一郎。
腕白で悪戯好きな子供だった宗一郎は、授業を抜け出しては、畑のスイカをむしゃむしゃ食べたり、学校で買っていた金魚を捕まえてエナメルを塗って青色の金魚にした。先生たちはさぞや困っていただろう。「まったく、どうしようもない悪ガキだ」といってなんとなく面白みのある少年だった。

読み書きが大嫌いで授業にはついて行かれないほどであったが、反面機械いじりが大好きだった。なんと2歳のころから精米所の発動機に興味を示したという。
その頃、祖父に背負われて精米所に一緒に行った。そこにはまだ発動機があった。
その機械は、ドンスカドンスカという心地よい音と、石油の独特な匂いが立ち込めていた。宗一郎は、その音と匂いを終生忘れなかったという。
胎教という幼児教育が効果があるとすれば、宗一郎こそ豊かな環境に置かれていた幼児もいないだろう。彼が小学校の2.3年生になったころに、静岡県磐田郡光明村に、初めて自動車がやって来た。その話を聞くともなく、宗一郎は自動車を追いかけていた。自動車は村の農道をノロノロ走っている。彼は追いついた。そのクルマからオイルが滴り落ちていた。宗一郎は、地面に鼻をつけてオイルの匂いを嗅いだ。懐かしいような心地よい機械油の匂いがした。その瞬間こそ、バイク・クルマ作りを神様に命じられたのだ。
この時から「世界のHONDA」の歴史が始まったといっていい。やがて、戦後になって宗一郎は大ヒット製品を世に放ったのである。それが「バタバタ」と呼ばれた、自転車に補助エンジンを取り付けた二輪であった。その二輪は、スーパーカブへと成長を遂げている。
本田宗一郎は、引退する日まで朝早くから遅くまで油にまみれた作業服を着こんで汗と油にまみれて作業に明け暮れた。やがて、二輪車から乗用車に手を広げるのだ。低公害車エンジンを世界に先がけ実用化に成功した。
祖父は水吞百姓で貧しかった、と宗一郎は振り返る。彼が読み書きが苦手でときおり小学校の授業から逃げ出しても、両親は宗一郎を叱りつけたりしなかった。祖父母や両親も宗一郎の無邪気な夢を受け入れ、そして愛してくれた。けっして、怒鳴りつけたりしなかった。
本田宗一郎は、豊かな感性、自由な発想と行動力を身に着けた「起業家」であった。
彼には、チャップリンの名作「ライムライト」の台詞「人生に必要なもの、それは、夢と勇気とちょっとのお金」こそ相応しいと思う。本田宗一郎は自分の子供に本田技研を相続させなかった。同族経営を嫌ったと云われる。

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