もう一つの天才の顔、森鴎外の衝撃
- 高下 豊光
- 2021年11月18日
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1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県津和野町町田)で生まれた。

代々津和野藩の典医を務める森家では、祖父と父を婿養子]として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。
藩医家の嫡男として、幼いころから論語や孟子、オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。
当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。
1872年(明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳で父と上京。現在の墨田区東向島に住む。
東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備えてドイツ語を習得するため、
同年10月に私塾の進文学社に入った。この際に通学の便から、政府高官の親族・西周の邸宅に一時期寄宿した。
翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある千住に移り住む。
1873年(明治6年)11月、入校試問を受け、「第一大学区医学校・東京医学校」(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学。
定員30人の本科「第一大学区医学校・東京医学校」「現・東京大学医学部」に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に師事し、漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒して和歌を作っていた。
語学に堪能な鷗外は、後年、執筆にあたって西洋語を用いるとともに、中国の故事などを散りばめた。
さらに、自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で語源を西洋語の学習に役立てる逸話を記した。
1881年(明治14年)7月4日、19歳で本科を卒業。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。
その進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に鷗外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また小池と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者といわれる親友の賀古鶴所(かこ・つると)は、鷗外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ鷗外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。
妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の鷗外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家の長唄を聴いて中座)していたという。

森鷗外記念館、ドイツ・ベルリン
入省して半年後の1882年(明治15年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初の軍医本部付となり、プロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事した。早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻を役所に納めた。
1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所に参拝。8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、10月7日にフランスのマルセイユ港に到着。
同月11日に首都ベルリンに入った。鷗外は横浜からマルセイユに至る航海中のことを「航西日記(こうせいにっき)」に記している。
19歳の若さで東大医学部を卒業して、軍医となった森鴎外だが、彼の悪筆ぶりは有名であったという。
明治の文豪とも称され、文学史に残る作品も多く残しているが、悪筆ぶりは、味わい深い「ヘタウマ文字」
ともいうべきで、誉められる筆遣いではなかったそうだ。
私は、森鴎外が欠点を持っていて良かった、と思ってる。
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