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その天才投手の名は「池永正明」である

  • 執筆者の写真: 高下 豊光
    高下 豊光
  • 2021年9月7日
  • 読了時間: 2分

池永正明は50年に一人の投手と云われる逸材であった。新人の年に20勝していた。

さらに、プロ生活入団5年ですでに103勝を上げていたのだ。なんと、毎年20勝をマークしている計算になる。


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彼が無事に現役を続けていれば金田正一の400勝を超えていただろう。


ところが、池永正明は、この「黒い霧事件」に巻き込まれ、野球界から永久追放されてしまった。

では、この1969年(昭和44年)はどんな年だったのだろうか。



5月26日には東名高速道路が全線開通。6月12日に原子力船「むつ」の進水が行われている。

そして10月28日、「プロ野球八百長事件」が発覚したのだ。当時の「西鉄ライオンズ」と「中日ドラゴンズ」の選手が暴力団と接触した。金銭を受け取り八百長を働いたのである。

事件の当事者、西鉄ライオンズの「永易将之投手」が永久追放となった。これで幕引きとなれば「池永正明」に類は及ばなかった。

だが翌年、「永易」は爆弾発言を行う。記者会見で、この野球賭博に関わっていたとする7名の選手の名を上げたのである。

その中には「池永正明」の名前があった。

だが、これは「濡れ衣」であった。「池永正明」も八百長を否定した。

そして、疑惑が晴れたのは2005年である。追放から36年が空しく流れ去った。

追放処分後、ファンの間で復帰のための署名活動が行われた。

しかし「疑惑の裁定」が覆ることはなかったのだ。すでに活躍できる年齢ではなくなっていた。

「池永正明」は、八百長に加担せず、預かっていた八百長の「謝礼金」は返していた。一般刑事事件では、これを「冤罪」という。

プロ野球の名門チーム「西鉄ライオンズ」はすでに消滅し、現在「西武ライオンズ」として、その歴史を継承している。


「池永正明」の場合、金銭の授受が問題視されたのだろう。「若気の至り」ではあった。

「鉄腕稲尾」を越えていた”天才”「池永正明」を潰したのは誰だったのだろうか。

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