「ヒトラー」この類まれな経済の天才
- 高下 豊光

- 2021年9月9日
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1920年4月27日、30歳になったばかりのアドルフ・ヒトラーは、ミュンヘンのビアホール「ホーフブロイハウス」で1200人の聴衆を前にして、経済破綻した共和制ドイツを立て直すためには「天才的な独裁者が必要である」と叫んだ。

ヒトラーの「芝居がかった自己演出」が受け入れられたのは、ナチスが基盤にしたのがミュンヘンだったからである。北ドイツのベルリンと違って、南ドイツの市民は、大げさなことを好む気質だという。ビアホールの聴衆は、仕事帰りのサラリーマンや販売店員であり、その4分の1は女性だった。
彼らは、政治集会というよりは、「おもしろい見世物」を楽しむ感覚でビアホールに立ち寄った。
当時の集会に参加した作家カール・ツックマイヤーは、ヒトラーは「激情に身を任せ踊り狂い、うなるように叫ぶ人間であった。
しかし、彼は葉巻の霞とソーセージのなかで無感覚にぼんやりと集まっている大衆を興奮させ、感激させる術を心得ていた」と述べている。それは、弱い個人を共同体感覚で豹変させる「術」だった。
1920年の1年間だけで、ヒトラーは50回近くも公開集会で演説している。8月13日のビアホールの集会では、2000人の一般大衆を前にして、「なぜわれわれは反ユダヤ主義なのか」を演説した。彼の話は2時間の間に58回も歓声で遮られた。
この演説約11,000語中の語彙の頻度は、「ユダヤ人」78回・「民族・国民」63回・「労働」54回・「人種」43回である。仮定を示す接続詞「もし~ならば」は85回、焦点を絞る副詞「~だけ」は68回、対比を表す接続詞「しかし」は48回も登場する。この分析を眺めるだけでも、ヒトラーが自分の主張を仮定し、敵対する主張と対比させながら、うまく結論を誘導していく論法が目に浮かぶ。まさに、演説の天才といえる。
1925年12月12日、ディンゴルフィングで行われたナチス集会でのヒトラーの演説は、目前のクリスマスの話から始まる。キリストが生まれた当時の「ユダヤ人気質によって病んだ唯物主義的世界」は、「もっとも憐れむべき状況下で生を受けた人物」によって救われた。そして「キリストはアーリアの血をもっていたのだ」と続く。ヒトラーは、自分こそが「新世界の救世主」だと聴衆に認識させたのだ。
しかも開発されたばかりのラウドスピーカーのおかげで、彼の声は巨大な演説会場の最後尾まで届くようになった。宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの1932年4月4日の日記には、「総統は、本日ザクセンで25万人を前に演説。ベルリンの遊歩公園では15万人が行進し、私と総統が演説。熱狂のるつぼと化す。時速100キロでポツダムへ移動、総統が5万人を前に演説。夜はベルリンのスポーツ宮殿で総統が1.8万人を前に演説。割れんばかりの喝采」とある。ラジオで聴いた国民も、同時に熱狂した。
演説以上に、抜きん出ていたのがヒトラーの経済政策であった。
彼が政権を奪取したときのドイツは、第一次大戦の敗北などがあって、疲弊しきっていて底が見えない状況にあった。インフレは進行し、青天井に物価は上昇した。
ハイパーインフレもかくやと思うほどであったという。
ヒトラーは、ケインズの「有効需要」を断行する。設備投資に次ぐ設備投資、有無を言わさぬ設備投資の連続である。その政策の結果、ドイツは好景気に沸き立つ。
インフレも失業も一切起きなかったという。有名な高速道路アウトバーンもこのころに建設されている。
--だが、とんでもない副作用をもたらした。
ファシズムの膨張であった。

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