Bクラス低迷の広島カープへの憂鬱
- 高下 豊光
- 2021年9月11日
- 読了時間: 3分
広島東洋カープが、やっと黒字に転じたのは、1975年の初優勝を成し遂げた年からである。古葉竹識監督であった。そしてV1戦士に名を連ねたのは、山本浩二、衣笠祥雄たち、この二人は永久欠番となっている。

この年からユニフォームは赤色を基調にし、帽子も赤色にした。当時、大下・三村の1.2番コンビはベース上を駆け回り、チームは赤ヘル軍団と畏怖された。エースピッチャーは、外木場義郎で、なんとデビュー戦の阪神戦で彼は、ノーヒット・ノーランを達成している。
観客の応援スタイルも大きく変わった。選手のファーストネームをコールするのは、今では珍しくないが、これが始まったのは広島球場からである。そして外野席に陣取ったトランペットの一団。鳴り物を使う応援スタイルは一般的だが、♬浩二・コールとトランペットの演奏は、山本浩二を激しく鼓舞していたのは、まちがいない。
山本浩二は、その年にV1・首位打者・それにMVPを獲得したのだ。彼は、試合後のお立ち台で観衆の目もはばからず号泣した。
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原爆投下という未曽有の被害を受け、向こう50年は草木も生えないと心配された広島市。だが、何とかして市民を元気にしたい、勇気を与えたいと、広島県の指導者たちは考えた。
その一つの方策が球団の創設であった。広島は、戦前から野球は盛んで、実力選手を数多く輩出していた。広島城は、別名を鯉城といった。その名をとって球団名を広島カープとしたのである。
球団は出来たが、その運営予算は十分ではなかった。市内の会社や個人に頼んで回り、株式を持ってもらった。その中で中心となって大半の株を引き受けたのが、自動車メーカーの東洋工業である(現マツダ)。
球団は、毎年赤字を積み重ねていた。それでも市民の球団を支えなければならなかった。そして、東洋工業にも問題が持ち上がっていたのだ。世界で唯一ロータリーエンジンの実用化に成功した東洋工業であったが、オイルショックに襲われるのだ。ロータリーエンジンは、性能が優れていたが、燃費が良くなかった。通産省は、業績が悪化する東洋工業に、外部からの資本を入れるなどのあらゆる可能性を模索していた。
創業家の初代社長・松田恒次は、1970年に死去した。あとを継いだのは、松田耕平である。初優勝の4年後に球団は阪急ブレーブスを破って日本一になる。古葉監督黄金時代であった。その陰で松田家による一極支配の布石が次々に置かれていた。
1977年、松田耕平は、代表権のない会長に退くのだ。東洋工業は「マツダ株式会社」と改称していた。同時に、球団の株式は東洋工業から松田家へと移譲された。その2年後に松田元が球団の取締役に就任したのだ。球団世襲の仕上げである。
ところが、初代の松田恒次は「経営基盤を建て直すために一時的に球団を預るだけだ」と明言していた。結果的に球団の大政奉還はなされなかった。本来ならば、球団は広島市民に返還されるべきものだ。
オーナーが、選手のFA宣言を極端に嫌うのは、何も現有戦力を失いたくなかったというだけではない。球団の経営権だけは死んでも守りたい、という亡父の霊にその都度うなされたからだ。
そのために人気選手との間で、無くてもよい騒動を生み出している。それは、高橋慶彦事件であった。その後、新球場の建設、再び黄金時代、ところが昨年広島カープは4連覇を逃し、今年は最下位にもがいている。その暗黒の過去に先祖返りをするかのようでもある。
大リーグでは、およそ考えられない。万年最下位、セリーグのお荷物球団というありがたくない揶揄は二度と受け入れたくないと思う。

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