1960年の安保闘争東大生が犠牲に
- 高下 豊光
- 2021年9月20日
- 読了時間: 2分
昭和35年(1960年)、反安保闘争は国会を囲んだ。
岸信介首相は、日米安全保障条約の改定に臨んだ。

岸首相が改定にこぎつけた「安保」は、内乱に米軍が出動できるという部分が削除されたものである。
それだけでも敗戦国ニッポンにとって大変な進歩といえた。安保改定は歓迎すべき成果ともいえたのだ。
社会党はこの安保改正に異議を唱え、国会周辺は反安保のデモ隊で膨れ上がった。
新聞報道は、「岸内閣は日本を戦前に戻すつもりなのか、断じて反対だ」といった論調に染まっていた。
この年の6月15日事件は起きる。デモ隊の一部が国会構内に乱入する。それを阻止しようと警官隊と衝突。
この騒ぎの中で東大生の「樺美智子」さんが死亡する。岸内閣は、この事件が起きたことでアイゼンハウアー大統領の訪日中止を米国側に通達する。
今にして思えば必要な改正であったといえる。何も犠牲者を出すほどに反対すべきではなかったと思うのだ。
この新安保条約は、19日の午前0時に憲法の規定によって承認された。
だが、その時に4万人が国会の周りを取り囲んでいたという。
岸内閣は総辞職に追い込まれた。あとを襲ったのは池田隼人内閣であった。
池田首相は、「所得倍増」計画を宣言した。
この反安保デモについて、岸信介首相は「声なき声にも耳を傾けなければならないと思う」と発言している。
首相は、「声なき声」こそ安保改定には賛成なのだ、と云わんとしたのであった。
この安保改定について、当時の新聞は正しく伝えていたのだろうか。
何でも反対するのが社会党の専売特許だが、間違えていたのは社会党ではなかったのだろうか。

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