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称賛された「フェアプレー精神」を知る

日本人初のウィンブルドン出場

---テニス選手「清水 善造」の快挙

[生]1891.3.25. 群馬 [没]1977.4.12. 大阪 テニス選手「清水 善造」


東京高等商業学校卒業。三井物産の社員としてインド駐在中の 1913年、ベンガル選手権大会に優勝し、以後同選手権を5回獲得した。 

1920年ウィンブルドン選手権大会に日本から初参加する。準決勝に進み,「世界の庭球王」といわれたビル・チルデンに善戦したが敗れた。 1921年デビスカップに熊谷一弥,柏尾誠一郎とともに初出場,1926,1927年にも出場し活躍した。

同年『デイリーテレグラフ』 Daily Telegraphのテニス世界ランキングで第4位となった。

その後は、錦織圭選手の登場まで、待たなければならなかった。

彼の「フェアプレー精神」は、後々まで海外で賞賛されるのだが、そのプレーを振り返ってみたい。

ウィンブルドン選手権大会決勝戦である。

「清水 善造」は、個性的な独特のフォームで決勝に臨む。

東洋から来た異様なフォームの選手が勝ち進むのを観客は脅威の目で見つめていた。

まったくの自己流でテニスはうまくなっていたが、とにかく試合にはめっぽう強かった。

決勝戦、マッチポイントを迎えた。ところが--

相手の米国人選手ビル・チルデンは、あろうことかボールを打った瞬間にバランスを崩して転倒したのだ。

そのボールが清水選手に返ってくる。絶好のチャンスボールであった--

清水選手のチャンスであった。スマッシュを決めれば初優勝だった。

ところが、清水選手は、それを打ち込むどころか、ビル・チルデンが立ち上がって態勢を立て直せるように、やわらかい少し高いボールを返したのだ。テニスの常識としては、あり得ないプレーであった。観客は驚いた。


ビル・チルデンは、そのやわらかいボールを容赦なくスマッシュした。

ゲーム・セットがコールされた--

「清水 善造」は、準優勝杯を生涯大切にする。

1977年、「本当に幸せな人生だった」という言葉を残して清水 善造は他界した。

享年86であった。

「清水 善造」のプレーには、賛否両論あるだろう。

なぜ、決めなかった?という声もあった。

しかし、対戦相手ファーストは、日本人の持ち味だと思う。

 
 
 

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