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残念「武士の一分」の描写不足

細部にわたり時代考証が雑に?

---残念「武士の一分」の描写不足


小禄の毒見役三村(木村拓哉)の身に起こる悲劇を描く。

2018年松竹映画 山田洋次監督作品 

ざっと物語を追ってみよう。

三村は、仕事で貝毒に目をやられ失明する。

そして人の世話を受けるばかりの暮らしに陥るのだ。

やがて、眼の痛みも和らぎ、家名も禄も安堵される。

目の不自由には、どうしても難儀するのだったが、経済生活は維持できた。


そんな中、三村は「妻の不貞」を知る。やむなく、即座に妻を去らせるのだ。

ところが、妻の不貞には理由があった。

三村は家名も禄も安堵されたのだが、実はそれを条件に御番頭は、彼の妻に身体を要求していたのだ。

彼は、これでは「武士の一分」がたたぬ、と激怒する。

三村は、妻をたばかり汚した御番頭に果し合いを申し入れるのだった。


「武士の一分」は、木村拓哉主演でヒットした映画だ。

作品の出来栄えには店長も満足したが、それでも細部の描写にはいくつか考証について疑問が残った。

まず冒頭に三村が自宅の座敷で食事している場面がある。

戸障子も開けっ放しにしている。下級武士といえど不用心で見知らぬ第三者に知らせるような愚かしい振る舞いはしない。

そして、この藩士たちが将軍・殿様のことを「おかみ」と呼んでいる。

将軍を「おかみ」と呼ぶ藩はなかった。なぜなら、この「おかみ」とは、宮中における天皇のことだ。

では、何と呼んだのか。「上様」あるいは「公方様」が正しい。大名・旗本は、「殿様」である。細部にこだわるつもりはないが、時代考証が雑過ぎないか?

また他の場面では、三村の叔母が息子を連れてきて「この子は勉強しない--」と嘆く場面があった。

この場面で何故現代語を台詞としたのか、意味が分からない。

「勉強」のこの時代の意味は、なんと「値段をつける」という意味だ。

だから正しくは「学問嫌いで困る」とするべきなのだ。

時代考証はきちんとすべきだ。監督の側近に詳しいスタッフがいなかったのか。

残念な作品だと思う。

 
 
 

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