歴史は繰り返す・スペイン風邪大流行
- 高下 豊光
- 2020年9月22日
- 読了時間: 4分
今回の新型コロナウイルスの流行で、節目となったのは、志村けんの死去だ。お茶の間でなじみの顔だけに、国民の間で危機感が一気に高まった。海外メディアも「日本の喜劇王死去」と大きく伝えた。

100年前のスペイン風邪でも、2人の著名な男女に悲劇が起きた。劇作家の島村抱月と女優の松井須磨子である。
島村抱月がスペイン風邪で死去し、2カ月後に、松井須磨子が後追い自殺した。国民はスペイン風邪の恐ろしさを知った。
当時の新聞では、この2人の話題で持ちきりだった。2人は最も有名な不倫カップルだったからだ。 島村抱月は、著名な劇作家。結婚していたが、自らが育てた女優、松井須磨子と恋に落ちた。妻子や早稲田大学教授の地位を捨て、同棲するようになった。
一方、須磨子は、島村が手掛けた舞台で人気が沸騰した。特に注目を浴びたのは、トルストイの小説をもとに島村が舞台化した『復活』だ。そこで、須磨子が歌う「カチューシャの唄」が、大人気となった。レコードが発売され、累計で2万枚売れた。日本で初めてのヒット曲と言われる。さらに、須磨子は、日本で初めて整形手術をした女優として知れている。

▲画像 スペイン風邪流行当時、旧内務省が作成した政府広報ポスター。家庭内感染を避けるよう呼びかけている。
スペイン風邪に最初に感染したのは、須磨子だ。1918年、大正7年10月末のことだった。島村は、熱にうなされる須磨子を看病し、感染したのだ。10月29日のことだった。 須磨子は徐々に回復したが、島村は、呼吸が困難となった。
翌30日の様子が記録されている。「島村先生は須磨子と共に流行性感冒に苦しめられている。少し心臓が弱いので、島村先生は呼吸困難を感じられている由だ。医者を呼んで診てもらったそうだ。
須磨子はかなりよくなったようだ」(島村の弟子の秋田雨雀の日記) 呼吸困難というのは、今の新型コロナの重症患者に診られる症状だ。感染してからわずか1日で、急変したのだ。
症状が良くなった須磨子は、明治座で舞台のけいこをした。一方、島村は深刻な状況が続いた。11月4日朝、病状が急によくなり、おかゆを食べた。「気分がよい」と周囲と元気に話すまでになったが、夜に再び発熱した。何度も、たんを吐き、急性肺炎を併発して、死去した。
日付をまたぎ、5日午前2時だった。そばにいたのは、主治医と看護婦だけだった。 須磨子は明治座から駆け付けたが、島村の死に目に会えなかった。「私は、先生の手厚い看護を受けたおかげで良くなった。それなのに、先生の病気の際、私は十分に看護できなかった」と悔やんだ。不倫とはいえ、「家の中での感染」だったのだ。
「スペイン風邪」は今から100年前、世界的に大流行した感染症。5億人がかかり、世界中で数千万、日本でも38万人余が死亡している。そのほとんどが2波、3波によるものである。
当時の歌人、与謝野晶子は新聞の寄稿文でわが子が感染したことへの不満をつづっている。「人事を尽くす」ことが人生の目的なのに、あらゆる予防と抵抗を尽くさず、むざむざ病毒に感染して死の手にとらえられることは「魯鈍(ろどん)とも、怠惰とも、卑怯(ひきょう)とも、云(い)ひようのない遺憾な事」だ。予防と治療にすべての可能性をつくすべきだと訴えている。安倍首相や西村担当相、東京都の小池知事にも聞かせたい晶子の思いである。
別の評論「感冒の床から」にも、危険を防ぐために大工場や大展覧会、学校など多くの人間が密集する場所の一時的休業をなぜ命じなかったのかと政府を批判した。子どもたちの病気を何度か短歌にしていたこともある。歌集「火の鳥」には〈わが子故(ゆえ)マリヤの像に抱かるるエスさへ病める心地するかな〉。子の身を案じる親の心情が切々と伝わってくる。「死の恐怖」には、私が死を恐れるのは、私の死によって起こる子どもの不幸を予想して、できる限り生きていたいという欲望のためだ、との一節もある。
再びコロナウイルスがひろがりをみせるいま、命を守るために人事を尽くす。時代をこえた呼びかけがよみがえる。〈われいまだ病みて命を護(まも)るより苦しきことに逢(あ)はざりしかな〉いつの世も政府は役に立たないものだ。
たぶん、国民は呆れていることだろう。安倍前首相がここまでおバカさんだったとは。アベノマスクの残りをこの期に及んでまだ配布するという。国民からズレまくっている。自由気ままにふるまう昭恵夫人にも国民の怒りが集中した。そして、そのワースト・レディを制御できない首相に国家の制御ができるだろうか、できはしない。
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