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幻冬舎・見城徹の熱狂する理由

見城徹が仕事に熱狂する理由は、死の虚しさを紛らわせるためなのだという。人は誰もが、死を背負って生き、生から死への道は一方通行である。

著者が7~8歳の頃、近所のおばさんが突然亡くなり、「自分の命には限りがあるのだ」と気付き、虚しくて一日中泣いたという。人が生まれてから、死という終着地点までの間に、不公平や不平等などの個人差が表れる。



死という絶対的な存在の前の生の虚しさを紛らわせるために、著者は常に何かに入れ込んできたのである。


生の虚しさを紛らわせるのは、「仕事」、「恋愛」、「友情」、「家族」、「金」、と人によっては「宗教」の6つしかないだろう。もしも、宝くじで20億円が当たったとしても、仕事をすぐにリタイアするなど問題外だ。余計に死への一方通行を歩む虚しさに苛まれることが明白だからである。

8、9年前、GMOインターネットの熊谷氏は消費者金融を買収後、法律の変更のせいで、一瞬にして会社が債務超過の危機に陥った。その当時、熊谷氏は著者に、仕事を辞めてハワイで悠々自適に暮らすか、私財を投じて再チャレンジするか、どちらが良いか尋ねたのだが、熊谷氏は170億円もの全私財を投入し、辛く険しい戦場へと飛び込んだという。仕事は辛く苦しいものだが、対世界の関わりを失った生き方の方が、よっぽど苦しいのではないか。だからこそ、スリリングでエキサイティングで、ワクワクする仕事をしていたいと見城徹は考えている。

見城徹は仕事に関しては、「成功」という結果が出ない努力に意味はない、と言い切っている。何かの成功を「運がいいですね」という人もいるが、「おかげさまで運がいいんですよ」と返しながら、自分の血の滲むような努力を思い、心の中で舌打ちをしている。成果の裏には、人の100倍の努力があるのだという。圧倒的努力とは、無理や不可能に立ち向かい、人があきらめても自分だけは苦難を極める努力を続けることだ。

辛さで連日悪夢にうなされることもある。見城徹は、「憂鬱でなければ、仕事じゃない」と説く。


毎日辛くて憂鬱な仕事であってこそ、挑戦しているということだ。見城徹が初めて石原慎太郎氏に会いに行ったとき、石原氏の著作の『太陽の季節』と『処刑の部屋』を目の前で全文暗誦してみせた。驚いた石原慎太郎氏は、そこで共に仕事をすることを約束したのである。このような圧倒的な努力はできるかできないか、ではない。やるかやらないかの勝負なのだ。この人物をぜひ学んで欲しい。

さらに、見城徹は、秋元康を評して「最後の親友」と言い切る。月刊カドカワの編集長だった見城徹は、当時大活躍中の秋元康に小説執筆を依頼する。そこで、原稿を受け取った見城徹は、修正して欲しい箇所があると要望した。ところが、秋元康はその申し出を頑として受け付けなかったそうだ。二人は激しく対立したという。その当時の秋元康は、一人の人間の仕事とは思えないほどの大量のプロジェクトを成し遂げていたのだ。

とんねるず「雨の西麻布」を作詞して大ヒットさせたかと思えば、小泉今日子に「なんてったってアイドル」を提供した。さらに、「おニャン子クラブ」の曲を次々と作詞した。そしてバブル期の1988年には、美空ひばりに「川の流れのように」を提供する。このヒット曲は、美空ひばりの最後の曲となっている。

その天才プロデューサー秋元康は、見城徹を慕って、血を分けた兄貴のように思っているという。秋元康とは、燃え尽きて灰になるまでリングの上で戦えるとまで云う。素晴らしきかな、極限までの努力を忘れない男たち!

 
 
 

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