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僕を見捨てないで!---太宰治「芥川賞事件」の憂鬱

第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。

太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり、薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。

この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について、

「例へば、佐藤春夫氏は『道化の華』によって、太宰氏を推薦するような意見であった」と述べていたが、太宰治の才能を認めつつも、「私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあった」と一転してケチを付けている。

そして、太宰治は、激しく怒りに震え、川端康成に反論した。

私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。さうも思つた。大悪党だと思つた。

そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのやうな、ひねこびた熱い強烈な愛情をずつと奥底に感じた。

ちがふ。ちがふと首をふつたが、その、冷く装うてはゐるが、ドストエフスキーふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかつかつとほてらせた。さうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ。—「川端康成へ」

太宰治は、怒りに任せて悲憤し反駁する。しかも彼に好意的であった佐藤春夫までも攻撃し、彼まで怒らせてしまった。

これらの経緯を「芥川賞事件」と呼んでいる。


その後、井伏鱒二に宛てた手紙が残されている。

「ときどき、ひとりで泣きます。男の悔し涙のほうが多く、たまには、めそめそいたします、6月中多くの人の居る前で声立てて泣いたこと二度。

誠実のみ、愛情のみ、ふたつのこりました」

井伏鱒二に手紙を出したのは、1936年昭和11年7月6日付けである。

まだ、人気作家になる前であり、文壇では孤独であった。

 
 
 

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