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佐木隆三「復讐するは我にあり」"西口彰"の逃避行

「復讐するは我にあり」

---西口彰の逃避行は神がかり?

 

 1979年、今村昌平監督

原作は、佐木隆三の直木賞作品。

稀代の殺人鬼「西口彰」はもちろん、事件に関係した人間の業や情欲を徹底的に描いた傑作である。

撮影は、実際の事件現場で行われたそうだ。1979年の映画賞を総なめしている。

殺人と詐欺を繰り返しながら全国を行脚した緒形拳演じる「榎津巌」は、裁判官をして「悪魔の申し子」と云わしめる。

映画「復讐するは我にあり」は、この実在の殺人鬼「西口彰」がモデルである。


映画は、驚愕の実話が展開する--

日豊本線築橋駅近くで専売公社のタバコ集金に回っていた柴田種次郎、馬場大八の惨殺死体が発見され、現金四十一万円余が奪われていた。かつてタバコ配給に従事した運転手「榎津厳」が容疑者として浮かんだ。

「榎津厳」は駅裏のバー「麻里」のママ千代子を強姦し、アパートに連れこんで関係を強要し続けるなど、捜査員の聞き込んだ評判も悪い。

二ヵ月前までは、ヌードダンサー上りで「金比羅食堂」をやっていた吉里幸子と同棲、母子家庭をガタガタにもした。

数日後、宇高連絡船甲板に幸子と両親宛ての榎津の遺書と、一足のクツが見つかり、投身自殺の形跡があった。

これを偽装と疑った警官が別府市・鉄論で旅館を営む榎津の実家を訪れると、老父鎮雄、病身の母かよ、妻加津子は泣きながら捜査の協力を誓う。一家は熱心なカトリック信者だが、戦争中、厳は網元をしていた父が軍人に殴られ、無理矢理舟を軍に供出させられた屈辱の現場を目撃して、神と父への信仰を失い、預けられた神学校で盗みを働き、少年刑務所へ送られた。

その後も犯罪と服役を繰り返し、その間に加津子と結婚した。結婚後、加津子も入信したが、榎津に愛想をつかし離婚、その後、尊敬する義父の懇望に従い再入籍。榎津は出所する度に父と加津子との仲を疑い、父に斧を振り上げるなど、一家の地獄は続いた。

浜松に現われた榎津は、今度は貸席「あさの」に腰をすえ、なんと大学教授と称して静岡大などに出没、警察をあざ笑うような行為を重ねる。

さらに千葉に飛んだ榎津は裁判所、弁護士会館を舞台に老婆から息子の保釈金をだまし取り、知り合った河島老弁護士を殺して金品を奪った。

当然ながら、この頃になると警察史上、最大といわれる捜査網が張り張り巡らされていた。

浜松に戻った榎津の素姓に「あさの」の女主人ハルやその母、ひさ乃も気づき始めた。

しかし、榎津に抱かれるハルは「あんたの子を生みたい!」とその関係に溺れ、元殺人犯で競艇狂いのひさ乃も榎津を逃そうとする。

だが、そんな母娘を榎津は絞め殺し、「あさの」の家財を売り飛ばし、電話まで入質して逃亡資金を貯え、七十八日後、九州で捕まるまで詐欺と女関係を繰り返した。このくだりは、もう救いようがない。映画を観るのが苦しくなってしまう。

最後まで頑張って鑑賞して欲しい。

これほど気合が必要な映画は他にはないだろう。

西口彰のインテリ風の外見に幻惑され、大学教授や弁護士を詐称しても、それを疑うものはほとんどいなかったという。

頭も良かったのだろう。犯罪を重ねるうちに、西口彰の法律知識は相当なものになっていたそうだ。

1970年12月11日死刑執行

西口彰 享年44であった。

 
 
 

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