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ドイツの建築家が絶賛した桂離宮の美しさ

1933年(昭和8年)に来日したドイツの建築家「ブルーノ・タウト」は、桂離宮を見て「泣きたくなるほど美しい」と、思わず口にする。


桂離宮は、初代八条宮智仁親王により、宮家の別荘として創建された。


17世紀初頭、1615年頃に山荘の造営を起こされ、数年ほどの間に簡素のなかにも格調を保った桂山荘を完成されたという。 この親王が没せられ、二代智忠親王は、加賀藩主前田利常の息女富姫と結婚された。



そのため財政的な裏付けもでき、山荘の復興、増築などに意欲的に取り組まれたという。智忠親王は父譲りの研ぎすまされた美的感覚をもって、1662年頃までに在来の建物や庭園に巧みに調和させた中書院、さらに新御殿、月波楼、松琴亭、賞花亭、笑意軒等を新増築された。池や庭園にも手を加えられた。

桂棚及び付書院で知られる新御殿や御幸道などは、後水尾上皇を桂山荘にお迎えするに当たって新改造されたものと伝えられている。

関ヶ原の合戦後、後陽成天皇は、皇位を八条宮智仁親王に譲ろうと考えた。だが、徳川家康の反対で実現しなかったという。親王は幼少時に豊臣秀吉の猶子だったことがある。

親王は、東軍に味方した高名な細川幽斎に和歌で師事していた。その縁で、田辺城に籠城していたその細川幽斎を助けるために、田辺城に勅使を派遣し、細川軍に矛を収めるように説得したという。

「武人として本意ではない」と籠城に固執する細川幽斎であったが、天皇の勅使に免じて籠城を解いたそうだ。

桂離宮は、一般にも公開され、訪れた人にブルーノ・タウトと同じような「泣きたくなるほどに」美しいという感嘆の声が上がっている。

 
 
 

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