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もう一つの八甲田山---「聖職の碑」の憂鬱

1978年製作/日本映画 配給:東宝

監督:森谷司郎

出演:鶴田浩二、岩下志麻、三浦友和、大竹しのぶ


1913年(大正2年)8月26日に長野県中箕輪高等小学校(現・同県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の集団宿泊的行事として実施された木曽駒ヶ岳集団登山における気象遭難事故の実話に基づき極限状態での師弟愛を描き、「生きること」「愛すること」の意味を問いかけた。


中箕輪尋常高等小学校高等科二年生二十五名、青年会員九名、引率清水、征矢、赤羽校長の三十七名が、修学旅行中、暴風雨に襲われ、山小屋を急造して避難していた。


赤羽校長にとっては、この中央アルプス駒ケ岳登山は執念の行事であった。

それは彼の“子供は生まれついては強くも正しくもない、それを鍛え、困難を乗り越えられる人間にするのが教育だ”という方針の為である。

しかし、清水訓導は、もともとこの登山には反対であった。

彼は、同僚の樋口や伊吹やえとともに自由な理想教育を目指し、校長とは度々論争をしていた。

赤羽校長の腕の中で古屋時松がこと切れると、小屋の中にパニックが起こった。

一人の青年が、屋根にしてあった着ゴザを引きはがして嵐の中に逃げ出すと、青年達は次々と後を追った。


そして、生徒と教師と一部青年会員の悲劇の下山が始まった。着ゴザを手に入れられなかった生徒達が次々と死に、校長は自分のシャツを生徒に着せて死んだ。

征矢は山を下り救援を求め、清水は負傷した生徒を岩陰に連れていった。

この登山に最も強く反対していた有賀主任訓導は、救援本部にかけつけると、すべてのシャツを生徒に着せて、凍死している赤羽校長の姿があった。

有賀は教育の方針の違いを越えた大きな愛を見る思いがした。

村葬の日、学校関係者や校長未亡人の回りには遺族たちからの罵声が渦巻き、校長の家には連日投石が続いた。

生きて帰った清水、征矢には査問会が待っていた。

周囲の反対を押しての結婚を控えていた樋口訓導は、校長に“今が一番大切な時だから残るように”といわれていたが、校長の後を追って自殺する。

有賀は病身を押して教師と生徒の心のふれあいを記念する遭難碑を建立し、その記念碑除幕式の翌日、世を去った。

それから十二年後、修学旅行は再会された。。


当時の学校教育には、りっぱな軍人を育成するという使命があった。

最近では、運動会などの体育授業も様変わりしている。よりリクレーションの趣が強い。

だが、当時は、国家的な取り組みであった。整列してのラジオ体操は、当時の名残とも思われる。

見逃した人には激しくおススメ。。

 
 
 

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