top of page

2016年の無関心---ボブ・デュランの憂鬱

ロック、フォークのレジェンド、ボブ・ディランが2016年のノーベル文学賞を受賞したことが発表された。 受賞の理由は「アメリカの伝統的な音楽にのせて、新しい詩の表現を創造した」ことだという。

ボブ・ディランは、1962年のレコードデビュー以来、“世代の代弁者”とも呼ばれるほど多くのリスナーの心をとらえ、1963年に発表した「風に吹かれて」は現在に至るまで世界中のリスナーから愛され続けている、彼の代表曲のひとつ。ボブ・ディランはこれまでに、グラミー賞やアカデミー賞など数々の受賞をはじめ、ロックの殿堂入りも果たしている。 彼はどうして何週間も沈黙していたのだろう。取材にも一切応じず、スウェーデン・アカデミーにすら連絡を取っていなかった。そのため、あらゆる方面から非難が浴びせられた。「感謝ってことを知らないのか」「なんて、傲慢な野郎だ」「ノーベル賞をなんだと思っているのだ」そのうちようやくイギリスの新聞取材に応じたが、型通りのコメントを発表しただけであった。 ボブ・ディランが賞やメダルを受賞したのは、授賞式の3ヶ月も後になってからであった。名誉にはまったく興味がなかった。世の中がどのように彼を評価しようが、まったくどうでもよかった。同じようなマインドを持っている人物が投資家のウォーレン・バフェットだ。「自分のしたことが周囲の人間にとって気に入らないものであっても、私自身がそれを気に入っていれば満足だ。いくら周りが誉めてくれても、私自身がその仕事に満足できなかったなら不満に思う」と述べている。ボブ・ディランは、そう思っていたのだろう。 だから、彼が不遜だ、感謝知らずだ、と云うのは間違っている。彼を非難する人々は、「承認欲求」の塊に陥っているのだ。先ごろ、SNSなどによって世間からの非難が1日当たり100通以上も押し寄せ、それを苦にして自殺した女子プロレスラーがいた。木村花さんであった。非難は数か月も続いたらしい。

彼女は「テラスハウス」に出演して火だるまになってしまったのだが、番組を製作したフジテレビは、このSNSの非難合戦を認識していたという。しかも裏でほくそ笑んでいたらしい。「しめしめ、狙いどうりになっている」と。フジテレビは一人の出演者の命を奪ったのである。関係者は、視聴率UPのために過剰な演出を強制していた。まったく、罪な話だ。 SNSの評判におびえる日常生活は、あってはいけないことである。注意しないと「アプルーバル・シーキング・マシン」になってしまうのだ。 この言葉を訳すと、「他人からの承認欲求を求める機械」となる。今から40年以上も前に作家の筒井康隆が発表して話題になった短編集がある。その中に、「ある日テレビが突然オレのことを流し始めた」というものがあった。名もなき会社員に過ぎないオレの日常が突然報道されるのだ。 まさしくこの不条理な世界が現出してしまったと云える。 ボブ・ディランは、正しい選択をしたと、云えないだろうか。


 
 
 

Comentários


bottom of page