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鞆の浦・鞆潮待ち御船宿いろは


坂本龍馬は、船にて大量の荷物を運搬すると稼げるだろうと「海援隊」を組織して海運業をはじめます。 そして、幕末の1867年4月に、伊予・大洲城の大洲藩が1万両にて購入・所有していたイギリス製の蒸気船「いろは丸」を15日500両の契約にて借り受けます。 これは、どうやら大洲藩のほうから亀山社中に接触があったようです。 この船は、長崎にて坂本龍馬五代友厚が、大洲藩の奉行・国島六左衛門と、ポルトガルの間を仲介して大洲藩が購入していた160トンの船でした。

「いろは丸」という船名は、坂本龍馬が命名したともされます。


その後、国島六左衛門は藩内の情勢が代わり、独断で船を購入したとされ切腹しますが、坂本龍馬(33歳)の海援隊は「初仕事」として、いろは丸に物資を積み込み、4月19日長崎を出港して大阪に向かいました。

菅野覚兵衛や、渡辺剛八、橋本久太夫、腰越次郎ら同志が乗船しています。

しかし、瀬戸内海を航行していた4月26日の夜23時頃、岡山県六島沖で紀州藩の軍艦・明光丸と衝突しました。

明光丸(めいこうまる)は、徳川御三家でもある紀州藩が、1864年10月に、グラバー商会より15万5000ドルにて購入していた887トン、全長76mの大型蒸気船で、長崎に向かっていました。

両船が接近したとき「いろは丸」の当番士官・佐柳高次(さなぎ-こうじ)が、甲板から、何度も、向かって来る船に呼びかけましたが、まったく応答がなかったといいます 小型だった「いろは丸」は大破し、自力航行不能となります。 明光丸は一度「いろは丸」の右舷に衝突したあと、後退ますが、またもや前進して二度にわたり衝突したとされています。


そのため、動けなくなった「いろは丸」から、最初は積み荷を「明光丸」に移そうとしたようです。 しかし「明光丸」の操縦が上手くいかず、結果的に鞆の浦(とものうら)に曳航することになりましたが、その途中にて「いろは丸」は沈没しました。

坂本龍馬はじめ海援隊士らは、明光丸に乗り移っており、死者は出なかったようです。

こうして、坂本龍馬らは鞆の浦にある廻船問屋の「桝屋清右衛門宅」に宿泊して、さっそく、55万石の紀州藩を相手に損害賠償の交渉を行ったと言うことになります。


坂本龍馬ぜよ。この船宿はわしが紀州藩と談判に臨んだ船宿じゃったきに。

ん?保命酒やないか。キミも飲んでみなされ。

 
 
 

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