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鞆の浦・鞆城跡

鞆城築城以前には鞆市街に城はなく、南北朝時代には鞆の津(現在の鞆港)に隣接する島に築かれた大可島城がその前身といえる役割を果たしていた。康永元年(1342年)に燧灘で勃発した合戦では、鞆も戦場(鞆合戦)となり、大可島城に篭城していた南朝方の将兵達は、北朝方の攻撃により全滅したという。観応の擾乱では貞和5年(1349年)に足利直義派の足利直冬中国探題として大可島城に滞在したが、幕府の討伐軍に攻められ九州に敗走した。

戦国時代になると備後地方は大内氏の勢力下となり、鞆の浦は天文13年(1544年)に村上水軍村上吉充に与えられた。鞆には吉充の弟である村上亮康が派遣され、村上氏の本拠は大可島城に置かれた。このため亮康は「鞆殿」と呼ばれた。


元亀4年(1573年)に織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が、毛利氏を頼って天正4年(1576年)から鞆に滞在しており(鞆幕府)、後に鞆城となる鞆要害が築かれ義昭の居館があったとされている。義昭の警護は一乗山城の渡辺元と大可島城の村上亮康があたっていたという。


天正6年(1578年)になると毛利氏は、信長と対峙するため鞆を本陣に定め、信長方の尼子氏を滅ぼした際には、山中幸盛の首級が鞆に運ばれ、義昭と毛利輝元が共に実見を行ったと伝えられる。義昭は6年間鞆に留まり、天正10年(1582年)に津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移ったといわれる。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏に替わり安芸国広島に入った福島正則が備後国をも領有すると、鞆城は城郭として大きく整備されることになった。この様子は慶長12年(1607年)に当地を訪問した朝鮮通信使の使節一行の日記に、「山上に新しく石城を築き、将来防禦(防御)する砦のようだが未完成である」との記述があり、当時まだ建設途上であった様子がうかがえる。城代には重臣の大崎玄蕃が置かれた。 築城は慶長14年(1609年)まで9年余り続いていたが、徳川家康が鞆城の存在を知って立腹し、これを恐れた福島正則は築城を中止して、完成していた施設も取り壊して家康に謝罪することになった。地元では元和元年(1615年)に発布された一国一城令によって取り壊されたと伝わっている。


天守などは破却されたが、後述のようにある程度残されていたといわれている。元和5年(1619年)に福島氏は損壊した広島城を幕府に無断で修理したとして、武家諸法度によって改易され、備後国の福島氏の支配は終焉を迎えた。


福島氏の去った安芸国は浅野氏が入り、浅野氏や長門毛利氏や筑前黒田氏などの、西日本の外様大名に対する西国の鎮衛として、鞆の浦のある備後国には徳川家康の従兄弟である水野勝成が福山10万石の領主として移封され、鞆城の三の丸跡には鞆奉行所が置かれた。鞆奉行所には勝成の長男勝重(勝俊)(後の2代藩主)が居住し、「鞆殿」と呼ばれた。勝俊が藩主に就任して以後は、重臣が鞆奉行として配された。江戸期の歴史書「水野記」の記述]によれば、宝永8年(1711年)に大手門と矢倉屋敷が焼失したとあり、江戸時代の中ごろまでは元の鞆城の建築物が存置されていたようである。


一国一城令後に備後国で残されたのは、鞆から北東約20kmに位置する神辺城であり、水野勝成も当初は神辺城主として移封されたが、西国の鎮衛の拠点として新規築城が認められ、元和6年(1620年)に福山城を築城して移り、神辺城は廃城になった。福山城には、広大な堀を擁していたが、鉄道・山陽本線の計画で、用地確保のために埋められてしまった。


 
 
 

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