鞆の浦・福禅寺對潮楼
- とよっチ
- 2020年8月16日
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渡船場のすぐ西側に視線を移すと、美しい石垣が目に映ります。その高台の上に悠然と建つのが『福禅寺対潮楼』です。平安時代の天歴年間(947〜957年)に、空也上人によって、「観音堂」(天台宗)として建立されたと伝えられています。
のち、1638(寛永15)年に、後陽成天皇の第三皇子によって、真言宗大覚寺の末寺に指定。その際に、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められ、そのまま、今日に至っています。鞆の浦第一の景勝地として昔から愛されてきたこのお寺。

この「対潮楼」は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったんですね。1711(正徳元)年、従事官・李邦彦は、そこからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛。のち1748(延享5)年には、正使・洪啓禧が、客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。
ちなみに、この眺望写真、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち(山口百恵さんのカバー)」のCDジャケットにも使われた。

村上天皇の后となった、この地(備後国赤坂村)出身の新庄太郎実秀の娘・明子は、日頃から千手観音信仰に篤かったといいます。そこで、后となった明子は、故郷に千手観音を祀るお堂を建てたいと思い立ち、空也上人によって「福禅寺」の前身となる「観音堂」が開基されました。ご本尊の千手観音は長い間、本堂の厨子の中で秘仏として安置されていたものです。この眺望は、朝鮮通信使も絶賛したという。
龍馬ぜよ。保命酒は、まだ製造しちるのきゃ。わしはいろは丸を鞆沖に沈ませがや。悲しゅうていかんぜよ。紀州藩との談判がこじれて、わしは桝屋清右ヱ門の屋根裏部屋に身を隠しておったがぜよ。ほいで、この保命酒を大事にしとった。
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