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鞆の浦・歴史を刻む圓福寺

圓福寺の始まりは室町時代に遡ります。当時の圓福寺は「釈迦堂」といって、現在の沼名前神社の南、小松寺の東に位置していました。圓福寺と号したのは、1610年末頃(慶長年間末頃)、住職の快音によって大可島城の跡地に移転した後のことです。美しい瀬戸内の島々や四国の讃岐山脈が眺望できる景観を有し、江戸時代には朝鮮通信使が来日した際の上官の常宿とされました。「山号扁額」は1711(正徳元)年の朝鮮通信使の写字官・花菴が大書した圓福寺の山号を木片扁額にしたものです。幕末のいろは丸沈没事件の談判では紀州藩の宿舎として使用されている。

大可島は1600(慶長5)年頃に鞆城が築かれたときに陸続きとなるまでは独立した島でした。紀伊水道と豊後水道からの潮流が一目で判る当地は海上交通の要所とされ、南北朝時代に大可島城が築城されました。1342(康永元)年、城主の桑原重信一族が足利氏に敗北した後は村上水軍の手に渡り、戦国時代には毛利元就の水軍の軍事拠点になりました。桑原一族の墓所は戦乱の名残を今に留めています。

圓福寺の座敷からの眺めは格別です。江戸時代後期、この景色に感嘆した1人の儒者が座敷を夾明楼(きょうめいろう)と命名しました。『日本外史』の著者・頼山陽の叔父である頼杏坪です。頼杏坪は農民の利益になるような政治を目指して藩に進言し、役人の不正を正すなど目覚ましい功績を上げた人物でした。彼が愛した夾明楼は、江戸時代を通して漢詩会や歌会、句会が催され、文化人の感興をそそりました。

坂本龍馬ぜよ。鞆の浦の保命酒は、もう味わったのかな。味わい深く、身体に良い。

わしが、紀州藩との談判に勝利したのは、この保命酒の霊験によるところ大ぜよ。

 
 
 

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