鞆の浦・平成いろは丸
- とよっチ

- 2020年8月11日
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広島県南東部に位置し、古くから瀬戸内海を代表する景勝地として知られる『鞆の浦』(とものうら)。
その沖に浮かぶ『仙酔島』(せんすいじま)は鞆の浦のシンボル的な存在で、渡船を利用すれば約5分で仙酔島へ渡れます。

鞆の浦と仙酔島を結ぶ福山市営渡船『平成いろは丸』は2010年(平成22年)に就航し、乗船料は大人ひとり往復240円で、早朝から夜間まで約20分おきに1日40往復しています。
全長約22mの黒い船体はノスタルジックなフォルムですが、実は坂本龍馬率いる海援隊が江戸時代末期に運用していた蒸気船『いろは丸』を模して建造されているのです。
坂本龍馬の『いろは丸』は慶応3年(1867年)4月、紀州藩船『明光丸』と鞆の浦沖で衝突し、その事故で『いろは丸』は積み荷とともに沈没してしまいます。 幸いにも坂本龍馬は無事でしたが、その後鞆の浦にて事故の損害賠償交渉が行われました。
そうした経緯もあり、鞆の浦には『いろは丸』に関する様々な資料を集めた『いろは丸展示館』が開設されています。『いろは丸展示館』は、鞆の浦の最も有名なシンボル『常夜燈』(じょうやとう)のすぐ目の前にあります。
通称『大蔵』と呼ばれる江戸時代に建てられた蔵をそのまま利用していて、その堂々たる造りも見どころの一つ。

水没した『いろは丸』には大量の鉄砲が積まれていたといわれ、鞆の浦と長崎での交渉の結果、坂本龍馬はその損失に対して多額の賠償金を勝ちとりましたが、これまでの水中調査では鉄砲の形跡は全く見つかっていません。
また海援隊が賠償金を受け取った数日後に、龍馬は京都で暗殺されました。
そのため「交渉を有利に進めるための龍馬のハッタリだったのか?」などといわれ、謎が謎を呼ぶミステリーとなっています。
一方で、太平洋戦争後にくず鉄が高値で売れた頃に、地元の潜水夫が密かに海底から大量の鉄砲を引き揚げ、くず鉄として売却してしまったという噂話も鞆の浦に伝わるそうです。
いずれにしても、真相は藪の中といったところでしょうか…
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