自転車考現学 その2
- とよっチ
- 2020年8月25日
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自転車と鉄砲鍛冶に何の関係が?
と疑問がわくだろう。明治時代、自転車を作ったのは鉄砲鍛冶だった。
江戸時代、各藩にはお抱えの鉄砲鍛冶が居た。維新後に西洋の新しい銃がもたらされると古い種子島(火縄銃)は見向きもされなくなった。彼らは、たちまち失業してしまった。
そこで、職にあぶれた彼らが目を付けたのが同じ鉄でできている自転車だったという。
自転車の製造はフレーム部など鉄砲と共通する技術が多かったため、鉄砲鍛冶は自転車が普及しはじめると、先ず修理業を始めた。
たとえば現在の大手自転車メーカーであるミヤタサイクルは鉄砲鍛冶だった宮田栄助が明治23年に、経営する宮田製銃所で自転車の修理製造を始めたのがきっかけであった。
宮田製銃所が明治23年に作り上げた試作自転車はサドルからスポーク、チェーン、ベアリングに至るまで、製銃技術を駆使して作られた自家製である。
明治14年、東京京橋に宮田製銃所が誕生した。
創業者は水戸藩鉄砲指南役の国友家に師事して製銃技術を身につけた「宮田栄助」で、常陸国笠間藩の御抱え鉄砲師として名字帯刀が許可された人物であった。
明治維新による廃藩置県令により、笠間藩から雇用を解かれたのを契機に栄助は宮田製銃所を興した。
栄助は次男の「政治郎」が11才を迎えると、当時東京銀座で製銃所を構えていた国友信之門下に5年間入門させ、国友鉄砲鍛冶の製銃技術をみっちり叩き込ませた。
文明開化と共に育った彼は、江州国友流の製銃技術を基盤に様々な機械器具を作り上げ、その優れた技術と設備により、陸軍から村田銃の発注を受けるまでになる。
そして、自転車は、いつしか修理のため機械加工技術に長けた政治郎の元へ持ち込まれるようになり、宮田製銃所のもうひとつの仕事として育って行く。
その自転車に将来性を見出した政治郎は、明治23年に日本初の安全型自転車(現在の自転車と同様に前後輪同径の後輪駆動車)を完成させると、明治35年には一切の猟銃製作部門を廃止し、社名も宮田製作所に改変した。
その宮田製作所こそ、ミヤタ自転車や消火器で名の知れた宮田工業の前身であった。
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