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福山・国宝明王院

寺伝によると、明王院の前身である「常福寺」は807年大同2年)に空海(弘法大師)によって創建されたという。この由来の根拠は江戸時代に作成された棟札によるものであるが、ほぼ同時期に作成された棟札がもう1枚あり、こちらには大同年中に「初住持沙門」と呼ばれる僧侶によって創建されたと記されている。当寺の本尊十一面観音像は平安時代前期にさかのぼる作品であり、寺の草創もその頃にさかのぼるものと推定される。中世には門前に草戸千軒町(川底に埋もれた中世遺跡として著名)が栄えた。江戸時代には福山藩主となった水野家・阿部家の庇護の下で繁栄した。

入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)、梁間(奥行)とも5間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。内陣蟇股の墨書から鎌倉時代元応3年(1321年)の建立と判明する。和様建築に鎌倉時代以降の新様式である大仏様(だいぶつよう)、禅宗様を加味した折衷様建築の代表例とされている。


内部の外陣に見られる輪垂木(わだるき)を用いたアーチ型の天井は、近世の黄檗宗寺院の建築には見られるものだが、中世には他に例がない。外面の桟唐戸、断面が円形に近い虹梁(こうりょう、堂内の柱間に架けた水平材)などは大仏様の要素であり、粽(ちまき、柱の上部をすぼめること)、台輪(柱上の板状の水平材)、渦巻文様の木鼻(貫などの水平材の端部の装飾彫刻)などは禅宗様である。虹梁を柱頂より一段高く持ち上げるために、斗(ます)や絵様肘木を複雑に組み合わせた架構を見せるが、これも他に類例のないものである。堂内は手前の梁間2間分を外陣、奥の梁間3間分を内陣とし、両者の間は結界で厳重に仕切る。内陣の両脇に脇陣を設けるが、これは参籠所として用いられていた。外陣が開放的な構えであるのに対し、内陣は窓がない、暗く閉鎖的な空間である。


南北朝時代の貞和4年(1348年)に建立された純和様の五重塔。初層内部の四天柱(仏塔の初層内部に立つ4本の柱をさす)、板壁などには極彩色の仏画や文様が描かれている。

初層の来迎壁(仏壇背後の壁)の「兜率天曼荼羅図」は江戸時代に寺外に流出し、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。


相輪の刻銘には、このが当時の繁栄した草戸千軒の経済力を背景に、ささやかな民衆の浄財を募って建立されたことが明記されている。


 
 
 

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