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生まれは今治、村上水軍の末裔を自称・芸人村上ショージ

瀬戸内海に浮かぶ伊予大島愛媛県越智郡吉海町(現:今治市)で、村上家の三男として生まれる。「昭和の時代に生まれ、常に二番手を走れ、という意味で昭二と名付けられた」と本人がたびたび話していたが、2007年3月3日放送の「MBSヤングタウン土曜日」で「本当は名前の由来は分からない。聞かれたときに何か答えなければならないと思い、そのように答えていた」と話し、名前の由来すらもネタにしていたことが発覚した。よく「村上ジョージ」と間違われ、一時期はこれを芸名にしていたこともあった。また村上水軍の末裔と語っていたこともあるが家系図などは見つかっておらず、実際末裔かどうかは不明。

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母を早くに亡くし、父も身体が悪く生活保護を受けた。中学卒業後、親戚の伝で広島県因島市(現:尾道市)に移り、因島高校定時制に通いながら日立造船因島工場で溶接工として働いた。1976年、造船所の溶接仕事の合間に見た「ヤングおー!おー!」(毎日放送制作・TBS系)の明石家さんまを見て、「この人になろう!」と決意する。実は、それまでもお笑いをやりたくて、吉本に入りたくて仕方なかったが、父親が反対したため、親孝行のために地元で就職していた。しかし父親が亡くなって兄から「好きに生きろ」との許可が降り1977年、吉本入りを志願し大阪へ向かった。面接の時、吉本の面接官から「何ができる?」と問われ「溶接です」と答えた(この事から、初めて吉本から与えられた仕事は劇場の手摺の溶接だった。


「楽そうだから」「優しそうだから」という単純な理由で、吉本所属の漫談家だった滝あきらに弟子入り。その後、「ヤングおー!おー!」の『パッパラパーズ』のメンバーとなり、全国ネットのテレビ番組に出演。その後も「さんまのサタデーナイトショー」(テレビ東京)などで東京進出を果たす。兄弟子に司会者の滝トール、タレントの九十九一らがいる。ただし九十九が、師匠である滝の葬式に姿を現わさなかったことで、後に顔を合わせた際に「義理人情がないのか」と口論になったことがある。

京都花月劇場で初舞台を踏むが、ドジョウを一匹丸ごと飲み込むという芸を披露し観客席からは悲鳴が上がってしまった。弟子であるさんまの友達の初舞台ということでこれを見物していた笑福亭松之助は憤慨し、大阪で仕事中のさんまを京都まで呼び出し「二度とドジョウ飲むなと言っとけ」と注意した。

1982年、岡田祐治と漫才コンビ・NGⅡとして今宮こどもえびす新人漫才コンクールに出場。ダウンタウンによると、大賞の筆頭候補だったが大賞を獲ったのは、そのダウンタウン。NG2は奨励賞受賞であった。


1980年代後半、人気バラエティ番組オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)に、お笑いトリオの何人トリオ(旧・難民トリオ)の一員としてレギュラー出演。ギャグだけを売りにするギャグ芸人の代表格で、「ドゥーン」「何を言う・早見優」などのダジャレ交じりのギャグで有名になる。番組内では、いつものようにショージが「なにを言う」のギャグを言った後、突然早見優自身が実際に登場して「はやみゆう!」と叫んだことがあり、その後失笑し続ける早見に対して、ショージやさんま達が唖然とした表情で彼女を見つめるシーンがあった。


近年は専ら明石家さんまの相方的存在で、数々の番組で共演している。また、さんまの個人事務所である「オフィス事務所」にもラサール石井らと共に籍を置き、年末年始にはさんまのオーストラリアの別荘で過ごしている。出会った当初からさんまに惚れ込んでいたようであるが、時折他の誰もがためらうような「厳しいツッコミ」を暴走したさんまに放っている。年齢は同じだが、芸能界デビューが若干遅いため「兄さん」「先生」などと呼んでいるが、稀に「お前」「あんた」などとも呼ぶこともある(ただし、さんまは特に怒らず、それから新たな笑いを生み出すこともある)。 1989年にモデルと結婚。仲人は当時夫妻だったさんま・大竹しのぶ(ただしさんま自身は所用で披露宴を欠席したため不仲説が出た)が務めた。長女も誕生するなど円満な家庭を築いているかに見えたが、その後1999年に離婚。なお、離婚直前に出演した「はなまるマーケット」(TBS)で、離婚をほのめかすような発言をしていた。そして離婚したのをきっかけに同年からさんまからの勧めで大阪を離れ、東京に住居を置くようになった。


総合格闘技イベント「PRIDE」ではリングアナウンサーの一員を務めた。紋付袴姿で登場して扇子を見ながら選手名を叫ぶのが基本スタイルで一切ギャグはない。他のリングアナが代替わりして、2000年からの参加なのに対して、1997年の第1回大会からリングアナを継続しているショージは最古参のメンバー。最初は違和感を覚えられて、一説には「第1回大会に村上一成選手と小路晃選手が出場して、「村上」と「小路」で主催者がギャグで起用した」と囁かれた。[要出典]回数を重ねるうちにいつの間にか「いるのが当たり前」となり、アナウンスの前に観客から「ショージ!」と声援を受けるまでになった。大阪大会では一際人気が高かった。


2005年にドラえもんの新声優オーディションを受けた。「ぼくドラえもんでっせ」という斬新な「関西弁のドラえもん」で関係者を爆笑させたが、内定には至らなかった[12]。それ以前では、本人役としてテレビアニメに出演したこともある(こちら葛飾区亀有公園前派出所、「両さん、選挙に立つ」にダメダメボーイズの一員として出演)。

TBS系で2006年9月24日に放送された「DOORS 2006」では予想外の健闘を見せ、数多い若手芸人に勝る意外な運動神経を見せた。富士急ハイランドジェットコースターええじゃないか」に乗りながらのクイズには唯一の全問正解を成し遂げ、マウンテンバイクの上の浮き橋を疾走するゲームでは最高ポイントを獲得する。決勝戦では品川祐品川庄司)に敗れるが、番組中に獲得したポイント(125P) は、全参加者の中で最多であった。他の参加者が「テレビ受け」を意識したボケ行動をとる中、終始、真摯にゲームに参加した姿は、ショージ本人が普段から見せる「すべり芸」とは全く異なるものだった。


因島へは、マウンテンバイクで。

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