"瀬戸の花嫁"になれなかった「小柳ルミ子」の失敗
- とよっチ
- 2020年9月8日
- 読了時間: 3分
若い世代には知る由もないのだが、
この二人が結婚した当時、まだ、「少子高齢化」が現実としては存在していなかった。

結婚して、やがて子育てをするのが一般の女性にとっては当然のことであった。
また、それこそ待ちに待った「女の幸福」でもあったのだ。
それは、芸能界においても同様だ。
ここに登場するのは、昭和を代表する、人気と実力を備えた大歌手「小柳ルミ子」だ。
彼女の姿をTVで見ない日がないほどの人気であった。その大歌手(当時36歳)が、結婚相手に選んだのは、なんと13歳年下の駆け出しのバックダンサーであった「大澄賢也」である。
1989年、平成元年4月6日である。世紀の(ある意味で)華燭の典が催された。
それは、出席者が誰も見てはいられないほどの熱愛シーンの連続であったという。
唾液が伝うほどの濃厚キスは7度にも及び、取材を兼ねていた記者がその時間を計ったところ、
性行為を連想させるほどのキスは、なんと15秒以上であったそうな。
だが、「大澄賢也」は、逆玉の輿だと世間から騒がれたようなラッキーボーイではなかった。
彼には、その夜からまるで地獄のような”奴隷生活”が待っていたのだ。
米を研いだり、なべを洗うのは、彼の日課となる。
そして、毎日1時間もかけて足を揉ませたという。それも、母親が息子をしかるような口調で命じるのであった。一方の夫婦生活は、賢也クンは、ルミ子様に対する性の奉仕役だったそうな。
これで二人が健全な夫婦でいるようなら、それこそ奇跡に違いない。離婚は目に見えている。
そして、彼が最も嫌がったのは、彼に与えられた称号なのだ。いつも”小柳ルミ子の夫”という冠詞がついてまわった。
例えば、2000年2月17日号の「女性セブン」に夫婦の主従関係が詳しく報じられた。まるで「女王様と忠実な奴隷」であった。結婚式を取材した記者から『長くは続かないだろう』と懸念する声が上がっていたが、不幸にも的中してしまった。
店長の私は、「小柳ルミ子」の母親に大きな過失を感じるのだ。母親は自分が果たせなかった夢をルミ子に託すのだ。綺麗な文字でサインが必要だと、幼いころから習字を練習させた。歌や踊りのレッスンは云うに及ばず。生活のすべては、娘を人気歌手にするための訓練にあてがわれたそうだ。結婚して家庭的なことをよりよくこなすことなど、眼中になかったのだ。その当時、すでに「花嫁修業」という言葉は「死語」
だったけれど。
そして、「小柳ルミ子」は歌手として成功を掴んだ。その一方、「女性」としては、疑問符が付けられるのだ。不幸にも、彼女はその”欠点”に気が付かなかった--
ただ、女性の幸福は「母性本能」を満たすことだけではない。「アーティスト」として成功する方がはるかに値打ちがある、と世間に示してくれた功績は偉大だと私は思っている。
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