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毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦い

弘治元年(1555年)10月1日、厳島の戦い毛利元就陶晴賢を破り、中国地方の覇権を握りました。


実はこのとき、元就は60歳近く。 家督も既に長子・毛利隆元へ譲っていましたが、まだまだ知性も体力も健在でした。

なんせ70歳のときに最後の子供が生まれている。


永禄十年(1567年)のことですので、織田信長が美濃を取り、真田幸村伊達政宗が生まれた年になります。


戦いの舞台となったのは文字通り厳島です。 世界遺産としても有名な歴史ある場所ですが、やはり戦国時代は戦乱に巻き込まれて荒れておりました。

平安時代には平清盛が日宋貿易の中継地点としていたことからもわかる通り、厳島は神域であると同時に瀬戸内海の航路として重要な位置にあったからです。


毛利元就が厳島神社を崇めていたにもかかわらず、ここを戦場としたのはそうした点が大きかったからでしょう。

一方、敵である陶晴賢は、大内氏の重臣であった。 陶は、同じく大内家重臣の杉重矩や内藤興盛(実際は静観)らと協議し、大内義隆を自害へ追い込む――という【大寧寺の変】を1551年に実行してから、大内の実権を握っている状態でした。


この変が西国一の下剋上と見なされることもありますが、もともと陶晴賢の家は周防の守護代を古くから務めていた大内家の重臣です。

それだけに動員できる兵数も大内軍(陶軍)の方が圧倒的に大きく、毛利方を1とすると、大内側は4~6倍程度の兵数でした。平地でまともにやりあったら、毛利が叩き潰されるのは明白だったのです。


そこで毛利元就は考えます。

「寡兵で大軍に打ち勝つためには?」

いくつかの条件を整え、何かと有利な条件を作り出す必要があったでしょう。

例えば、源範頼源義経兄弟が【一ノ谷の戦い】でやったように、敵の度肝を抜いて混乱させる奇襲も有効な手の一つ。


その準備のため、元就は脳細胞をフル稼働させます。

実は、こうした観点からも「厳島」は適した場所でした。

もともと神社のためにある島ですから、軍事的な防備はさほど厳重ではありません。

当初は陶氏から寝返った毛利方が数百人ほどの兵で守るのみ。とても戦を行うには向かない状態でした。しかし、裏を返せば「そんなところで俺達が負けるわけがない」 と油断させることもできるわけです。

エサに釣られた大魚・陶軍。 そこが厳島という極めて狭い漁場ということをすっかり忘れてしまったかのように、この状況でもし包囲されたら……なんてこと考えもしません。


というのも、毛利には陶軍を囲めるほどの人数がいないのである。

そこが陶晴賢一生の不覚でした。


一方、そのころ毛利側は着々と準備を進めています。 確かに毛利家だけの兵ではどう考えても数が足りませんが、敵を小さな島に押し込めた上で、出口となる海を包囲してしまえば袋のネズミの完成です。

海で包囲するのなら、陸地で同じことをするよりも兵数は必要ありません。

敵船の間を泳いで通り抜け、対岸までたどり着くなんて芸当はドーバー海峡横断より難しい。時期的にも水が冷たくなる頃である。また、下手に飛び込んでもそうそう長くは泳げません。

そこに目をつけた元就は自分の家の水軍だけでなく、瀬戸内海の有力者・村上水軍に援軍を要請し、「包囲よろしく」と依頼したのです。

これで準備は万全、あとは神様の気分次第……。

作戦決行の夜――。 予想外の荒天に見舞われながらも、毛利側は二手に分かれて進軍を開始します。

毛利元就・毛利隆元という新旧二人の当主が島の裏手。 「三本目の矢」こと小早川隆景が船で島の正面へ向かいました。


もちろん、隆景はそのまま戦ったわけではありません。 なんと「陶晴賢殿に御味方申す!」と、大嘘をついて無事上陸を果たすのである。

そしてこっそり宮尾城の味方と合流したという。

嵐も収まった翌朝10月1日、ついに毛利の逆襲が始まります。

追い詰められた晴賢は、大江浦(別説として高安原)で自刃する。


*月岡芳年『大日本名将鑑毛利元就』/wikipediaより引用

 
 
 

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