故郷・大三島を守り抜いた「大祝鶴姫」
- とよっチ
- 2020年8月13日
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日本で唯一現存する女性用の鎧という意見もある「紺糸裾素懸威胴丸」、それを実際に着用して戦ったといわれている女武将がいます。 戦国時代(16世紀半)の伊予国(愛媛県)、18歳という若さで水軍を率いて周防国(山口県)の大内氏と何度も戦い、瀬戸内海に浮かぶ故郷・大三島を守り抜いた「大祝鶴姫」です。

戦国時代、三島水軍を率いた女将軍・「大祝鶴姫」(おおほうりつるひめ)が着用した物だとされ、これを着て16歳から18歳という花の盛りの時期に、最前線で戦ったことから、「瀬戸内のジャンヌダルク」とも呼ばれるようになる。

大三島は、南北朝時代から安土桃山時代にかけて、瀬戸内海最強と言われた「村上水軍」(むらかみすいぐん)が海賊衆として勇壮な海のロマンを繰り広げた芸予諸島(げいよしょとう)の島々をつなぐ46.6kmの「しまなみ海道」の中ほどにある島です。大祝鶴姫は、この島にある大山祇神社の大祝職(大宮司)の娘として1526年(大永6年)に生まれます。神職の家に生まれた彼女がなぜ、水軍の将になったのでしょうか。
父は大祝31代・「大祝安用」(おおほうりやすもち)で、安舎(やすおく)と安房(やすふさ)という2人の兄がいました。実は、大山祇神社のしきたりで、安舎が神職である大祝職を、安房は大三島を警護する水軍大将を継いで、島内・三島城の陣代になると決まっていたのです。鶴姫が生まれたときは、まだ、父が大祝職についており、兄の安舎が陣代を務めていました。

鶴姫は、顔立ちが整い、大柄で体格にも恵まれたていたばかりか、父の手ほどきで神道書をはじめ様々な書物を読みこなし、横笛や琴も奏でる、非常に利発な少女だったようです。鶴姫が誕生した室町時代後期は、各地で戦国大名が台頭した時代。
父はそんな時代の空気を感じていたのか、娘にも武術の修行を勧めました。5歳から本格的な剣術を学んだ鶴姫は、兄達の武術の鍛錬にも加わり、しばらくすると10歳も年が離れている次兄の安房との立ち合いで、何本かに1本は取れるようになったのです。
鶴姫が8歳のとき、父が病死し、安舎が大祝職を継ぎ、安房が水軍の大将に就任します。すでにその当時、大三島には戦国の嵐が吹き始めていました。中国地方の強大な守護大名・「大内義孝」(おおうちよしたか)が度々攻撃を仕掛けてきており、大祝氏は同族の河野氏や村上水軍と組んで死闘を繰り返していたのです。それでも、鶴姫はまだ、兄2人に守られ、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、鶴姫が16歳になった1541年(天文10年)6月、その生活は一変します。大内氏が瀬戸内海の覇権を握るために、かつてないほどの大船団を率いて大三島に攻め込んできたのです。何とか激闘の末に大内軍を追い払ったものの、三島水軍の陣代であった兄・安房は討ち死にしてしまいます。

同年10月、大内軍は三島軍の陣代の死を知り、追い打ちをかけるべく、再び大軍を大三島に送ってきました。それに対し、策を練り、夜明け前に早船(小型船)による奇襲をかける三島軍。そのとき、何と、陣代として三島水軍の陣頭に立っていたのは、ほかならぬ鶴姫でした。大祝職を継いだ安舎はしきたりにより戦場には立てないため、鶴姫が安房の遺志を継ぎ、大三島の神を守るという熱い思いをたぎらせて出陣したのです。
甲冑を身にまとい、大薙刀を携えて馬にまたがった鶴姫の姿は、神々しいほど威風堂々としていたと伝わります。「われこそは三島大明神の使いなり」と名乗りを上げます。そして大薙刀を振るい、敵の大将であった「小原中務丞隆言」(おはらなかつかさのじょうたかとき)を討ち取るのです。指揮官を失った大内軍は撤退。三島軍は大内軍の上陸を再び阻止したのです。
わしは、なにも鉄の馬に跨らなんでも、おなごにはモテたちのう。中岡や後藤さんとちごうて。キミは、イケメンではないきに、バイクを買いんしゃい。楽天は、ええで。
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