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愛媛・道後温泉、松山城放火事件

放火犯が最初の犯行に及んだのは1932年(昭和7年)9月15日のこと。

まず道後温泉にある道後ホテルが炎上し、19時間後には近くの曹洞宗護国山・義安寺も炎上した。


当初警察失火放火かを断定していなかったにもかかわらず、地元新聞社は放火によるものと憶測記事を掲載した。これは松山のシンボルである松山城が標的にされることを恐れて警鐘のためであったが、不幸にもそれが現実になった。


そして1933年(昭和8年)7月9日に松山城が放火され、天守類焼を免れたが、小天守・南北隅櫓・多聞櫓が焼失した。

その後地元紙「海南新聞」(現在の愛媛新聞)に対し、放火犯からと思われる手口を詳細にしるした手紙が寄せられるようになったが、犯人はなかなか判明しなかった。



熊本県警察は放火現場にが付着した紙くずから犯人の特定に成功。

おりしも愛媛県に朝香宮訪問に伴う厳戒体制にあった1936年5月に宇和島市に偽名で宿泊中の古川某(当時34歳)を逮捕した。

古川は当時梅毒に罹患しており、そのため手足から血膿がふいていた。


逮捕後西日本各地で学校や寺院などに対する45件の放火と列車妨害にくわえ8件の窃盗を自供し、動機として「火を見ると興奮する」や「焼けば大工左官仕事がふえる」など屈折した心理が垣間見えていた。

犯人の男性は福井県で生まれたが、家庭環境に恵まれず、そのため少年の時代から常習的に窃盗を繰り返しており、連続放火犯として逮捕されたときには前科7犯で刑務所と一般社会を往復していた人生であった。

一連の放火で犠牲者は出ていなかったが、1937年11月12日松山地裁刑法放火罪では最高の死刑を宣告し、2審の広島控訴院(現在の広島高裁)も控訴棄却し、1939年9月15日広島刑務所で死刑が執行された。

 
 
 

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