悲劇の建礼門院徳子、壇ノ浦古戦場址の碑
- とよっチ
- 2020年9月15日
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平清盛の娘・建礼門院徳子は、平家一門の栄枯盛衰の象徴ともいえる人物だ。
父・清盛の思惑通り入内し高倉天皇の中宮(正室)となり、授かった男子が安徳天皇として即位する。

文字通り「国母」となるまでが一門繁栄の象徴としての姿、そして清盛亡き後の一門の都落ちと壇ノ浦で一門が滅びた後、大原の寂光院で一門の菩提を弔い往生するまでの姿は、平家物語の中で「盛者必衰の理」をすべて体験した人物として独特の仏教感で描かれ物語の最後を飾っている。
清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、平氏一門は滅亡する。
延暦寺が義仲軍に就いたことで京都の防衛を断念した平宗盛は、徳子に都落ちの計画を伝えた(『平家物語』)
しかし、7月24日深夜、後白河法皇は密かに法住寺殿から比叡山に脱出していた。翌25日、法皇の脱出を知った宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇・徳子・近衛基通・一族を引き連れて周章駆け出した(『吉記』7月25日条)。
『平家物語』によると徳子は安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込むが、渡辺昵に救助されたという。
しかし同じ『平家物語』の「大原御幸」の章や説話集『閑居友』では、時子が「一門の菩提を弔うために生き延びよ」と徳子に命じたとしている。
いずれが正しいか不明だが、生き残った徳子は平宗盛・平時忠らと京都に護送された。宗盛は斬首、時忠は配流となったが、徳子は罪に問われることはなく洛東の吉田の地に隠棲する。 5月1日には出家して、直如覚尼と名乗った。
7月9日、京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊した。吉田の坊も被害を受けたと思われ、9月になると徳子は「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり」(『古今集』読人知らず)の心境で比叡山の北西の麓、大原寂光院に入った。
彼女は、釈迦の「因果経」に出会ってから、悲しみのどん底から救われたという。
「未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」
人を憎み、愚痴の心で暮らしていては、未来はますます暗くなる。
源氏一族を恨んでいては、決して救われない。そのように理解した彼女は、ようやく平和な余生を過ごすことができたという。
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