広島・福山うずみ物語 その3
- とよっチ
- 2020年8月31日
- 読了時間: 3分
『備後神邊の郷土料理うずみ』(今西昭・光子 自家版)を見ると神辺の古い商家で受け継がれているうずみについて書かれていました。
その中に村上正名氏が書かれたうずみについての記事がありました。それには城下町から近郷神辺平野にかけて秋祭りが近づくと今年も、『うずみ』をつくろうと楽しみに祭りの前の晩を迎える習わしがあった。祭りの宵でなくても秋の珍客があるとこの『うずみ』を御馳走したものである。

‥‥しかし、この『うずみ』には封建時代に質素倹約をしいられた民衆のかすかな抵抗の祭りの宵の賓沢がうずめられているという歴史がまつわっている。もう一本の記事には御飯と具と汁を箸で混ぜながら食べるのですが、食事が進む程、味が深まってきます。季節に合った具、エビなど煮出し材でおいしく作るのがポイントです。豆腐、ネギ、里芋、ゴボウ、人参は定番(加藤純一)とある。

さらに読売新聞備後版(1998年11月13日)が掲載され、それには「神辺の今西さんおいしい具ご飯で隠し、400年の味100人に提供へ」とあり元和五年神辺城主になった水野勝成が倹約政治を敷き、ぜいたく品とされた鶏肉、エビなどを食べるため、庶民が具をご飯で隠したのが始まりとされ、福山、府中市、新市町などにも伝わった。神辺町では古くから、天別豊姫神杜の十月二十日の例祭前日に食べる風習があった。
この「水野勝成が倹約政治を敷いたので庶民がご飯で隠した」という説についてのうずみに関した史・資料はなく、また阿部正倫の時代に倹約令が出されたことからという伝説めいた話もある。ただ神辺地域ではかなり食べられていたのであろうが、同じ神辺地域の人でも知らないというから忘れ去られたのか、家庭による違いや狭い地域などではまた違っていたのかもしれない。
『備後神邊の郷土料理 うずみ』の中に「うずみ 武家の食説」があり、それには勝成は備中、備後で各地の豪族の食客をしていたのでこの地方の産物、食生活などを熟知していても不思議ではない。その流浪生活の中から「うずめめし」を考え付いたのではないか
と書かれていて武家の食説としている。だが自分はこの勝成が考えたという説については根拠がはっきりしてなく納得しがたい。
また、この書には「うずみ 町人料理説」も書かれている。江戸中期に会席料理が完成し物資の流通も活発化し町人の生活も派手になった。その結果変遷を繰り返してきた後、一つの料理に郷土色が加味され伝承の『うずみ』が出来上がったという町人食の説がある。
もう一説には「主婦の生活の知恵から産まれた料理であるという説」で祭りの前夜は大勢のお客が来る。主婦にとっては最も忙しく、夕食はもう出来るだけ簡単に済ませたいので、台所に残る野菜や庭を走り廻る鶏を〆て醤油の汁を作り、昼に炊いた残りご飯を載せ適当に食べさせた
という生活の知恵の結果説がある。これだと汁は人数分の増減自由だし、器も一つですむし、後片づけの手間が少ないなど至極便利なうずめ飯が生まれたのだ、と云う説
であるが、ただこれは「多くの人を接待する饗応料理の手間を省くこと」がその理由だが、自分としてはこの説に関心が高いのは、農村地域でも食べられていたことから農民にとっても便利であったに違いないと思うからである。
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