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広島・瀬戸内シージャック事件

川藤展久は岡山県倉敷市で、6人兄弟の三男として生まれた。父親は船員、母親は新興宗教信者で家は留守がちだったという。

川藤は中学に1年通っただけで行かなくなり、広島、東京など全国を転々と放浪していた。その間、パチンコ屋の店員、暴力団の使い走りのようなことをやっていた。

 

事件の3年ほど前に広島で工員となったが、20件余りの窃盗事件を起こし逮捕され、69年春に出所してからは定職に就いていなかった。


事件前、川藤は広島県三原市のパチンコ屋で知り合った少年A、Bと福岡市内で車を盗み豪雨のなか逃走していた。


5月11日、3人は広島方面に向かっていたが山口県の国道2号線で検問にあい、逮捕された。3人は盗難車とパトカーに分乗して連行されたが、その途中、盗難車に乗せられていた川藤とAは隠し持っていた猟銃を警官に突きつけ、ナイフで警官の胸を刺し2人は逃走した。


2人は宇部市で洋服を買い服装を変えた。「土地勘のある広島で一稼ぎして、大阪に向かおう」などと相談した。


12日昼、広島市内の山中で2人は発見され、Aが逮捕される。川藤は通りかかった軽トラックの運転手を脅して人質にして、さらに追跡してきた警察と鉢合わせになり、警官から拳銃と実弾4発を奪って逃げ続けた。


午後3時40分頃、川藤は市内の銃砲店を訪れ、店員を脅し、ライフル2挺、散弾銃1挺、実弾380発を奪った。宇品港に現れたのはその後である。


川藤展久は「どこでもいいから大きい町へ行け!」と命令、ぷりんす号は瀬戸内海の向う側にある松山港に向かった。 


一方、事件を受けて広島県警は警官1000人を動員し、呉港など沿岸に配備。また警備艇、巡視船、ヘリコプターなどが「ぷりんす号」を追跡開始。川藤は接近する船に発砲を繰り返した。


船が松山観光港に近づくと、川藤は船長を通じて、人質の解放を条件に燃料を満載した船を要求した。しかし、松山西署はこれを拒否し、ぷりんす号に補給をすることで、乗客を降ろさせることを提案し、川藤はこれをのんだ。


13日午前0時40分、33人の乗客全員と乗員4人が解放された。船に残るのは船長以下7人の乗組員である。ぷりんす号は再び出港した。


深夜の海上、父親が説得するも失敗に終わる。

午前8時50分、ぷりんす号は宇品港に戻ってきた。川藤はすでに逮捕されたA、Bを連れてくることを要求し、ライフル銃で威嚇射撃を繰り返した。発砲は説得を続けていた父親にも向けられた。


午前9時51分、船から約40m離れた防波堤の陰にいた大阪府警の狙撃隊員(当時41歳)が甲板にいた川藤を狙撃。


「死んでたまるか・・・・もういっぺん・・・」

倒れこんだ川藤がそう呟いたのを、傍にいた船長は聞いた。銃弾は左胸に命中しており、搬送先の病院で11時25分に死亡した。


この犯人銃撃の様子はテレビで中継されていた。父親は「親として、死んでくれてせめてもの償いができた。警察に抗議するつもりはない」と語った。


シージャック事件自体、日本の犯罪史上初めてのことだったが、人質事件での犯人射殺も初のケースだった。川藤の意図はもう分からないが、逃亡が続き、どこへ逃げて良いかわからなくなって、先に起こった「よど号事件」を思い出したものと見られる。

事件後、札幌の弁護士たちが、狙撃した警官を告発したが、広島地検は「警職法による正当行為」として不起訴とした。


 
 
 

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