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広島・大久野島毒ガス資料館

かつて大久野島では、大量の毒ガス兵器が製造されていました。当時、毒ガス製造の実態を隠すため、陸軍が発行した地図においても大久野島一帯は空白地域として扱われていたことから“地図から消された島”と呼ばれるようになりました。現在では、休暇村として整備され国民の保養地となり、島内には砲台跡、発電場、毒ガス貯蔵庫等と、当時の面影は僅かしか残っていません。

この島で毒ガスを製造した過程で多くの犠牲者を出すに至った事は誠に痛ましく、その悲惨さを訴え、そして恒久平和を願う目的で1988年にこの資料館が建設されました。今では年間多くの方がこの地を平和学習の場として訪れています。


竹原市の忠海港から船で約15分。周囲約4kmのこの小島は約900羽もの野生のうさぎが棲息することで知られており、瀬戸内海の美しい自然の中でうさぎとふれあいながら、のんびりとした時間が過ごせる島です。大久野島にある島唯一の宿泊施設。瀬戸内ではめずらしい天然ラドン温泉が湧き、瀬戸内海の夕日を眺めながら至福のひとときが過ごせます。また、サイクリングやウォーキング、テニス、釣り、キャンプなど屋外で楽しめるレジャー施設も充実。夏には海水浴場やプールもオープンし、うさぎと触れ合いながらリゾートライフが満喫できます。


住所

〒729-2311 広島県竹原市忠海町5491電話番号0846-26-3036営業時間9:00〜16:30(入館は16:00まで)


この島では1929年(昭和4年)から1944年(昭和19年)あるいは1945年(昭和20年)終戦まで、秘密裏に大日本帝国陸軍によって毒ガスが製造されていた。その歴史を風化させないという地元住民の願いがあり、毒ガス資料館が建設された。

建物自体は竹原市および周辺市町の元工員や動員学徒など毒ガス被害者の数団体で結成された「大久野島毒ガス被害者対策連絡協議会」が建設し、竹原市に寄贈。1988年(昭和63年)4月、竹原市所有・連絡協の運営で開館した。この経緯は、当時島全体は環境庁(現環境省)が所有する国有地であったこと、国側は建設は許可したものの毒ガスのことを公表することに消極的であったことから。

2006年から指定管理者制度を導入、2009年から「休暇村大久野島」が管理している。近年連絡協議会は高齢化によって維持活動が困難になりつつあるとして、毒ガスに関する各種資料の保存に関して国の介入を呼びかけている。

年間入場者数は、開館当初は5・6万人台、最大は1995年で約6万5千人、そこから90年代後半に減少の一途をたどり、2004年から2008年の間は2万人台、2015年時点ではウサギの島として観光客が増大したことに伴い4万人台にまで回復している。

島内には毒ガスを製造していた頃の建物が遺構として残っているが、ほぼ立ち入り禁止であることに注意が必要である。大久野島神社境内にある殉職碑は2人目の死者がでた1937年に建立されたもの、毒ガス障害死没者慰霊碑は1983年に建立されたもので、以降毎年協議会の主催で慰霊式が行われている。


 
 
 

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