広島・名勝縮景園
- とよっチ
- 2020年8月26日
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元和6年(1620年)、広島藩浅野氏初代藩主である浅野長晟が命じて作らせた藩主の別邸(大名庭園)が起源であり、歴代浅野氏から寵愛を受け現在まで拡幅し、1940年(昭和15年)浅野氏が広島県に寄贈し現在に至る。

最初の作庭は上田宗箇によるものだが、現在の庭園の原型は京都庭師の清水七郎右衛門による後の大改修によって形成されたもので、1900年代初期明治末期頃に現在のものとなったものの、1945年広島市への原子爆弾投下により荒廃、1970年代までに再建された。なお、清水は当時の著名な庭師の一人であり、縮景園の他にも吉水園と滄浪園を広島藩内に造園している。
広島市内中心部付近にあり、太田川水系京橋川沿いにあり、その河口から約6.4km上流に位置する。西側に広島城、京橋川を挟んで東側に広島駅がある。周辺は緑が多く、京橋川上流側に東部河岸緑地が整備されている。南西は広島県立美術館に、南東は広島市立幟町中学校・広島市長公館に隣接しており、元々縮景園の敷地の一部であった。
正徳3年(1713年)、5代藩主浅野吉長は邸内の山・池・建物・橋・島などに雅名を付け、藩の儒員で堀杏庵の曾孫である堀南湖に『縮景園記』を作らせた。縮景園の名が出てくる最古の資料はこの縮景園記であり、少なくとも1700年代初頭にはこの名前が使われていたと推測されている。その他、古い資料では7代藩主浅野重晟時代に藩儒として活躍した頼春水が命名したとするものもあるが、上記の通り現在では否定されている。
なお、造営当時の正式名称は「泉水屋敷」で、明治から戦中までは「泉邸(せんてい)」であり、縮景園の名が正式名称となったのは戦後からである。戦前まで地元住民から「御泉水」とも呼ばれていた。
海外、特にキリスト教圏では「Asano Park」の名でも知られている。これは後述のとおり被爆後この地に滞在したイエズス会神父達による回顧録によって定着したものであり、例えば米国戦略爆撃調査団の報告書やタイム誌の記事に引用されたヨハネス・ジーメス神父著『The Atomic Bombing of Hiroshima』や、著名な被爆体験記であるジョン・ハーシー著『ヒロシマ(英語版)』にこの名が登場する。
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